馬鹿な選択
夜は、まだ深い。
空には、二つの月が浮かんでいた。
その光に照らされて、
家の輪郭が、静かに闇から浮かび上がる。
窓には、淡い光が差し込んでいる。
居間では、
炉の中に残った熾が、かすかに赤く揺れていた。
オルセンは、しばらく何も言わずに
朔の手の中の赤紫の実を見つめていた。
瞬きの回数だけが、やけに少ない。
その視線には、隠しきれない焦りが滲んでいる。
その沈黙が、
「時間がない」という事実を、
言葉よりもはっきり伝えていた。
掌に収まるほどの、小さな実。
けれど、その存在感だけは、
妙に重い。
やがて、低く口を開く。
「……月果は、希少な実だ」
オルセンはそこで一度、口を閉じた。
朔の指先に視線を落としたまま、続ける。
「この辺りでも、滅多に見つからん。
町へ持っていけば、かなりの値がつく」
オルセンは、そこで言葉を切った。
「……言い値で払う。譲ってくれ」
その言葉は、交渉だった。
命がかかっていると分かっていても、
子どものものを奪えない。
だからこそ、オルセンは“頼んだ”。
大人として。
そして、ナディアを守る者として。
ぎりぎりの線で、そう言ったのだと分かる。
朔は、少しだけ間を置いて――
「……全部、使って」
言い切るような声だった。
オルセンが、顔を上げる。
「お金も、いらない」
「……正気か」
朔は、照れたような笑みを作った。
「こういうときは、助け合いでしょ」
言ってから、
ほんの一瞬だけ、視線を落とす。
(……もう、何もしないのは嫌だ)
そう言って、
肩に掛けていた鞄に手を伸ばし、
中に残っていた月果を、まとめて差し出した。
オルセンは、視線を落とす。
「……後で後悔しても知らんぞ」
朔は、すぐには答えなかった。
差し出した手を、
ほんの一瞬だけ、そのままにする。
やがて、顔を上げる。
――何も言わない。
ただ、小さく笑った。
やがて、オルセンは、ゆっくりと息を吐く。
炉の熾が、ふっと明るくなり、
伏せた顔の輪郭を、赤く縁取った。
「……馬鹿な坊主だ」
そう言って、オルセンは目を伏せた。
「……感謝する」
短く言って、オルセンは実を受け取った。
そのまま居間の奥へ向かう。
包丁と、古いまな板を取り出した。
果実を割ると、
濃い色の果肉が覗いた。
甘い香りが、ふっと広がる。
オルセンは、布に包んだ小さな匙を取り出し、
果肉を、すりきり一杯すくった。
それを鍋に落とし、
水を張って、火にかける。
火を弱め、
沸かしすぎないよう、じっと目を離さない。
やがて、
皮と種だけを取り分け、
石臼に移した。
臼に落とされるたび、
乾いた音が、居間に小さく響く。
潰れるというより、
砕かれていく音だった。
二つを合わせ、
再び火にかける。
甘さと苦さが混じった匂いが、
ゆっくりと立ちのぼる。
薬草とは、どこか違う。
けれど、確かに「薬」だと分かる匂いだった。
朔は、声をかけることもできず、
ただ、その背中を見ていた。
湯気の立つ器を手に、
オルセンはナディアの部屋へ向かった。
⸻
しばらく、
居間には音がなかった。
炉の中には、まだ熾が残り、
ゆっくりと揺れていた。
朔は一度、立ち上がり、
薪の入った籠に手を伸ばした。
けれど、
それを足す理由が見つからず、
そのまま手を引っ込める。
また、腰を下ろした。
朔は、その明かりの中で、
自分の手を見下ろしていた。
指を閉じても、
何も、そこにはなかった。
やがて、
足音が近づいてくる。
オルセンが、居間に姿を見せた。
「……効いてきたな」
それだけで、十分だった。
朔は、
胸の奥に溜めていた息を、ようやく吐いた。
淡い月明かりが、床に細く伸びていた。
オルセンが、静かに言った。
「……無償ってわけにはいかん」
朔を見る。
「欲しいものはあるか」
朔は首を振った。
「ない」
迷いのない声だった。
「助けてもらったから、それで十分」
頬を緩ませて言う。
オルセンの目が、わずかに見開かれた。
炉の火が、小さく鳴った。
「……なぜ、坊主が森の奥に居たのかは分からん」
低く、静かな声。
「だが、今日一日で見えたものもある」
オルセンは、しばらく黙ってから続けた。
「……何か事情があるんだろう。
それくらいは、分かる」
そして、朔をまっすぐ見た。
「だからな」
言葉を選ぶように、ほんのわずかに間を置く。
「せめて、この先、
自分の身くらいは守れるようにしてやる」
それは、約束ではない。
誓いでもない。
けれど——
見捨てないという、オルセンなりの宣言だった。
(……待て、待て。やめてくれ。
そういうの……一番困る)
一歩、引きかけて、足を止める。
(……かと言って、断れる空気じゃない。
……やっちまった)
朔は、視線を落としたまま、
口元だけが、先に動く。
「……うん」
炉の赤が、ゆっくりと色を落としていく。
(……受け取っちまった。
……いや、たぶん大丈夫)
熾は、もう炎にはならず、
ただ静かに、形を保っていた。
まだ、夜は終わっていない。
けれど——
確かに、朝へ向かう一歩が、ここにあった。
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序盤は数日連続更新です。




