音の消えた午後
※序盤は数日連続更新です。
※その後は週3回更新予定(水・金・土の21時10分)
「巡りのはじまり」**
――遥かな昔、
空から、光が注いだ。
満ち溢れた光は
恵みをもたらした。
だが――
そのあふれは、歪みとなり、
やがて巡りを滞らせた。
――歪みを、
巡りへ。
それを、
元へ。
そうして、
再び回り始めた。
だから今も、人は言う。
「あなたに、月の巡りがありますように」
――巡りの書より一部抜粋
⸻
窓の外で、乾いた風が一度、手すりを鳴らした。
大学生の俺は、逃げ場のない午後を、部屋で潰していた。
レポート提出前日だというのに、だ。
わかってはいるけれど、やる気はどこにも見当たらない。
「……あと二百字。なのに書けない」
ノートパソコンの前で、ため息だけが増えていく。
画面を見つめたまま、
視線だけが、ふっと逸れた。
机の脇に置いたノートが、
その先にあった。
講義で出たキーワード。
図書館で拾ってきた引用。
ページの端には、走り書きのメモ。
調べるところまでは、終わっている。
材料は、揃っている。
それでも、視線を画面に戻すと、
指は止まったままだった。
午後の光は、半分だけ開いたカーテンから入り込み、
机の上のノートと、置きっぱなしの小さな鞄を、
選ぶように照らしていた。
部屋の奥には、
まだ影が残っていた。
ここは、たった六畳のワンルーム。
部屋を見回す。
机と椅子。
ノートパソコンと、数冊のノート。
壁際に寄せたベッド。
隅には、小さな冷蔵庫と電子レンジ。
棚はあるが、飾るものはない。
引き出しの中身も、生活に必要なものだけだ。
ここに越してきてから、
何かを増やそうと思ったことは、一度もなかった。
鞄の中から、微かな振動が伝わってきた。
中に入れているのは、スマホと財布だけだ。
椅子の背に、体重を預ける。
天井を見上げて、ほんの一瞬だけ視線を逃がす。
それから、ゆっくりと鞄に手を伸ばし、スマホを開く。
講義のグループ。
課題の締め切り。
次の用意。
どれも、今すぐ返さなくても困らない内容だ。
「あとでいいか」
――それに、
「ごめん、レポート詰まっててさ」
そう言えば、たいていの話は流れていく。
講義のグループ分けで作った連絡先は、
消してはいない。
ただ、必要なときにしか開かない。
この部屋では、
誰かと話さなくても、一日が終わる。
それで困ったことはない。
少なくとも、今のところは。
その静けさに、
ほっとする自分がいることに気づいて、
少しだけ、目を伏せた。
遠くで、電車が一本、通り過ぎた。
音はすぐに薄れて、
部屋の中には、また静けさだけが残る。
しばらく、音のない時間が続いた。
気づけば、
スマホの画面が開き、
指先だけが動いていた。
見慣れたアプリが表示される。
『こんにちは。今日は何を手伝いましょう?』
(便利だよな。
考えなくても、それっぽい“正解”が返ってくる)
俺は軽く親指を動かした。
「レポートのまとめって、何書けばいい?」
一拍も置かず、返事が表示される。
『今回学んだことを、あなた自身の言葉でまとめ——』
思わず口元がゆるむ。
「だからさ、それが一番ムズいんだって」
言葉は、部屋の中でほどけるように消えた。
朔は、スマホから視線を上げた。
机の向こうのノートパソコンの画面。
その白い余白の中で、
カーソルの点滅だけが、規則正しく続いていた。
その光を見つめながら、
朔は、ゆっくりと息を吐いた。
視線を外す。
画面の外には、さっきと変わらない部屋。
半分だけ開いたカーテン。
机の上のノート。
動かない空気。
(……ちょっと、外行くか)
理由は、はっきりしていない。
レトルトの残りが頭をよぎった気もするし、
何か甘いものが欲しかった気もする。
ただ、このまま座り続けるよりは、
一度、体を動かしたほうがよさそうだった。
スマホをポケットに入れ、椅子を引く。
床に、かすかな音が落ちる。
壁に掛けていた上着に袖を通し、小さな肩掛けの鞄を手に取る。
すぐ戻るつもりだった。
ドアを開けると、外の空気がそのまま流れ込んできた。
午後の道は、いつもと変わらない。
アスファルトに伸びる影。
自転車のブレーキ音。
遠くで鳴る踏切。
誰かに呼び止められることもなく、
こちらを気にする視線もない。
歩くたびに、靴底が地面を叩く。
それだけの音が、今はちょうどよかった。
歩きながら、ポケットに手を突っ込む。
行き先は、いつものコンビニだ。
見慣れた景色が、視界を流れていく。
信号の前で、足を止めた。
赤。
規則正しい電子音が、短く鳴っている。
ぴ、
ぴ、
ぴ——。
横に立っていた親子が、何か話していた。
「僕さぁ——」
その一言が、耳に入った瞬間。
音が、少しだけ遠くなる。
——昔のことだ。
なのに、勝手に、浮かんでくる。
電子音と重なるように、
当時の声が、ふっと浮かんだ。
——僕は、もういい。
大事にするのも、
されるのも。
電子音の調子が変わり、
周りの足音が、一斉に前へ動き出す。
前の人の背中に遅れないよう、
足を出す。
横断歩道を渡りながら、
さっき聞いた声のことは、
もう、振り返らなかった。
そのとき、
前を歩いていた人のポケットから、小さな何かが落ちるのが見えた。
金属音。
軽く弾んで、足元で止まる。
その人は、気づかないまま歩いていく。
(……見なかったことにすればいい)
誰にも声をかけず、
何もなかったことにして、
そのまま歩けばいい。
それが、一番楽だ。
なのに――
気づいたときには、
足が止まっていた。
しゃがみ込んで、それを拾い上げる。
鍵だった。
小さなキーホルダーが付いている。
「……すみません」
声が出たのは、ほとんど反射だった。
振り向いたのは、
近くの高校の制服を着た女の子だった。
一瞬きょとんとして、
それから目を丸くする。
「えっ……あ、ありがとうございます!」
明るい声。
まぶしいくらいの笑顔。
反射的に笑みを浮かべると
「気にしないで」
それだけ言って、
視線を逸らす。
……それ以上、踏み込む理由はなかった。
コンビニに、足を急がせる。
なぜだか、
さっきまで考えていた甘いもののことが、
頭から消えていた。
コンビニに入り、
棚を一列、なんとなく眺めた。
(……帰るか)
結局、何も取らないまま出口へ向かう。
ふと、視線が、レジ横に引っかかった。
色鮮やかな見た目の球が、
小さな透明ケースに並べられている。
——ああ、これ。
逃げられないようにするやつ。
(……名前、なんて言うんだっけ)
そんなどうでもいいことを考えながら、
家へと向かう。
しばらく歩いていると、
突然――
音が、消えた。
遠くを走る車の音も、
信号機の、規則正しい電子音も。
さっきまで確かにあった生活の気配も。
そのすべてが、
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
唐突に、途切れた。
「……え?」
声は出た。
けれど、その音が、
自分の耳に届いたのかどうかは分からない。
足元の感覚が、
抜け落ちていく。
視界がにじみ、
部屋の輪郭が、ほどけていく。
最後まで残っていたのは、
肩にかけていた小さな鞄の重みだった。
それさえも、
やがて、闇に溶けた。
*
鼻先をかすめる、湿った匂い。
ひやりとした風が頬をなで、
どこかで鳥が短く鳴いた。
まぶたを開く。
目の前いっぱいに、緑が広がっていた。
「……森?」
背の高い木々が空を覆い、葉の隙間から斜めに光が差し込んでいる。
ざわざわと枝葉が揺れ、聞いたこともない虫の音が響いている。
さっきまでの部屋は、どこにもない。
心臓が、どくりと跳ねた。
「ちょ、ちょっと待って……。ここ、どこ?」
立ち上がろうとして、足元がぐらりとする。
湿った土。靴裏に絡む枯れ草。
そのとき、肩にかかる重さに気づいた。
——そして、鞄の口を探る。
(……残ってた)
硬い感触に、胸が少しだけ軽くなる。
(よかった……)
電源を押す。
——無反応。
もう一度。
長押し。
黒いまま。
画面の端に、小さなヒビ。
(嘘だろ……)
思わず、笑うしかなかった。
画面は反応しない。
助けを呼べると思っていた手段が、
思ったより、あっさり消えた。
知らない空。
知らない匂い。
知らない世界。
(……やばい)
胸の奥がじわりと冷えていく。
森の奥で、風が低く鳴った。
誰もいないはずなのに——
見られているような気がした。
さっきまで、いつもの午後だったはずなのに。
——日常は、音もなく途切れていた。
そして、
何かが、始まろうとしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
序盤は数日連続更新です。
朔の物語はまだ始まったばかりですが、見守っていただけたら嬉しいです。




