第9話「嘘と名前」
嘘をつく人は、もう見飽きた。
その言葉が浮かんだのは、朝の工房で経糸を張っているときだった。指は糸を通しながら、頭の中では別のことを考えていた。
ルシアンの情報の速さ。商会独自の伝達手段があると言った、あの短い返答。色覚のことを打ち明けたときの、あの正直さとは違う沈黙。
伯爵領の崩壊情報が三日で届く商人。色を見分けられないのに染料を商う男。窓枠を夜のうちに直す手際。外套を片手で畳む、あの滑らかすぎる所作。
一つ一つは些細だった。けれど並べてみると、どれも「ただの商人」という輪郭からはみ出していた。
ナディアは糸を結び、織機から立ち上がった。
今日、聞く。
九年間は聞かなかった。夫の社交がどこで何をしているのか、領地の外で何が起きているのか、聞かなかった。聞く立場にないと思っていたし、聞いたところで何も変わらなかった。
今は違う。自分の工房で、自分の判断で取引をしている。取引相手が何者かを確かめることは、商売の当然の権利だった。
午後、ルシアンが工房を訪れた。
月次の染料納品だった。革鞄から瓶を取り出し、作業台に並べる。いつもの手順だった。
ナディアは瓶を受け取らなかった。
「カヴァリエ様。一つ伺いたいことがあります」
ルシアンの手が、瓶の上で止まった。
「あなたは本当に商人ですか」
工房の中に沈黙が落ちた。窓の外から市場の喧騒がかすかに聞こえていたが、工房の中の空気は動かなかった。
ルシアンは瓶から手を離し、体ごとナディアに向き直った。
長い間があった。ルシアンは言葉を探しているのではなかった。言葉はあるのに、それを口にする覚悟を固めている。そういう間だった。
「商人です。商会を運営し、利益を出している。それは事実です」
ルシアンの声は低く、静かだった。いつもの抑えた調子だが、その下に強い緊張があった。
「ですが、それだけではありません」
ルシアンは一歩、作業台から離れた。ナディアとの距離が広がる。
「俺は、バルテア王国の元侯爵家の跡取りです」
一人称が変わった。
ナディアはそれに気づいた。今まで「私」だった言葉が、「俺」に変わっている。丁寧語の壁が、一枚剥がれた。
「十年前に父が政争に巻き込まれ、爵位を剥奪された。父は五年前に病で亡くなった。俺は商会を立ち上げ、バルテア国王の密命でフェルゼン王国の繊維・染料の流通網を調査している」
ルシアンの目はナディアを見ていた。視線を逸らさなかった。
「商会の運営費は国王の非公式な支援を受けている。伯爵領の情報が速かったのは、商会の通常の情報網ではなく、密偵用の鷹便を使ったからだ。ブルーメンからバルテア王都まで二日で届く」
ナディアの指が、作業台の縁を握りしめていた。
「あなたの取引条件が相場より安かったのは」
「繊維流通の調査拠点を確保するためだった。あなたの工房を定期的に訪問する理由が必要だった」
ルシアンの声に、震えはなかった。事実を一つずつ並べるように話していた。
「最初は、そのためだった」
ナディアは黙っていた。
また嘘だった。
色覚のことを打ち明けてくれたあの日、この人は正直な人だと思った。秘密を共有できる相手だと思った。信頼という言葉を、初めて自分の中で使い始めていた。
それが、また嘘の上に建っていた。
九年間、名前を呼ばれなかった場所にいた。あの場所では、すべてが「伯爵家のため」という建前の上に成り立っていた。ナディアの仕事も、ナディアの存在も、建前の一部だった。
ここでもまた、同じことが起きている。ナディアの工房は、密偵の調査拠点としての利用価値があった。取引も、訪問も、建前だった。
「また、同じだった」
声が出た。自分でも思わなかった。口をついて出た言葉は、ルシアンに向けたものであり、同時に自分自身に向けたものだった。
ルシアンは動かなかった。
「嘘をついていた」
ルシアンの声が、工房に落ちた。
「だが、あなたの布が好きだと言ったことと、あなたの名前を覚えたことだけは本当だ」
ナディアはルシアンを見た。
この人の目は、色を正しく見ることができない。それでも今、ナディアの顔をまっすぐに見ていた。
「最初の日に、あなたの布に触れた。銘のない布だった。俺はその布を手に取って、名前を聞いた。あれは任務ではなかった。あの布の手触りが、ただ知りたかっただけだ。誰が織ったのかを」
ナディアは答えなかった。
作業台の上の染料の瓶が、午後の光を受けて静かに並んでいた。この瓶を届けてくれた手は、密偵の手だった。同時に、窓枠を直してくれた手でもあった。
どちらが本当なのか。
答えが出なかった。
ナディアは工房の扉に手をかけた。
「今日は、これで」
ルシアンは何も言わなかった。ナディアが扉を開けて出ていくのを、立ったまま見ていた。
ナディアは工房を出た。石畳の坂道を下り、マルタの雑貨店の前を通り過ぎ、町の外れの井戸端まで歩いた。夕暮れの風が山あいから吹き下ろしてきた。
涙は出なかった。怒りも、すぐには来なかった。胸の中にあったのは、鈍い重さだった。
九年間は耐えた。名前を呼ばれないことに耐え、透明であることに耐え、嘘の上に自分を置いた。あの頃は耐えるしかなかった。問うこともできず、確かめることもできず、ただそこにいた。
今回は問うた。自分から聞いた。返ってきた答えは、聞きたくないものだった。けれど聞いたのは自分の意志だった。
あの頃とは、違う。
井戸端の石に腰を下ろし、しばらくそこにいた。日が落ちていく。ブルーメンの町に灯りが点き始める。
立ち上がり、工房に戻った。
工房の中には誰もいなかった。ルシアンは出ていっていた。作業台の上に染料の瓶が置かれたままだった。納品分の瓶。受け取りの署名はしていない。
ナディアは瓶に触れず、叔母の机に向かった。
引き出しを開け、叔母の書きかけの手紙を取り出した。もう何度か読んだ手紙。宛先は叔母の姉、ナディアの母。差出人欄は空白。
叔母もまた、本当のことを書けなかった人だった。姉への手紙に、自分の名前を書けなかった。日常の報告は書けた。工房のこと、染料のこと、季節のこと。けれど自分の名前を差出人欄に書くことだけはできなかった。
叔母は嘘をついていたわけではない。書けなかっただけだ。書けないことと、嘘をつくことは違う。
けれど、手紙は出さなかった。本当のことを伝えられなかった。それでも工房は残した。布を織り続け、銘を入れ続け、この場所を守った。
嘘の中にも、残るものはある。
手紙を引き出しに戻した。
作業台に戻り、染料の瓶を見た。ルシアンが持ってきた瓶。密偵が運んだ瓶。けれど中身の染料は本物だった。品質は一度も嘘をつかなかった。ナディアの布を染めた藍の色は、嘘ではなかった。
ルシアンが言った。名前を覚えたことだけは本当だと。
あの日、工房で「ナディア、と読むのですか」と言った声。「覚えました」と言ったあの一言。あれが任務だったのか、それとも本当だったのか。
答えはまだ出せなかった。出す必要も、今はなかった。
ナディアは椅子に座り、瓶の封蝋をなぞった。
九年間は嘘に耐えた。今回は耐えたのではなく、自分から確かめに行った。それだけで、あの場所にいた頃の自分とは違う場所に立っている。
答えは急がない。ルシアンの告白を受け入れるか拒むか、それは私が決める。誰かの都合ではなく、私の判断で。
灯りを消す前に、織機のセルヴィッジを見た。銘を入れる余白。指がそこに触れた。
まだ入れない。けれど、この余白に何を入れるかは、もう誰の許可もいらない。
それだけが、今の自分にある確かなものだった。




