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九年間隣にいた妻の名を、夫は離縁状で初めて書いた  作者: 月雅


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第8話「監査の封蝋」

「レーゲンベルク殿、少しお時間をいただけますか」


オスカーの声は、いつもの事務的な調子だった。だが書記官事務所の扉を閉める手つきに、普段にはない慎重さがあった。


ナディアは事務所の椅子に腰を下ろした。月次の報告書を届けに来ただけのつもりだったが、オスカーの机の上には報告書とは別の書類が広げられていた。封蝋の痕が残る厚い羊皮紙。王家の紋章が押された公的文書だった。


「王宮書記局から、ヴァイスフェルト伯爵領に対する監査通告の写しが当特区にも回付されました」


オスカーは書類の表紙を指で示した。


「領民からの直訴と、年次報告書の不備を根拠とした王家監査です。監査対象期間は過去十年間の領地財務全般にわたります」


ナディアは何も言わなかった。手を膝の上に置いたまま、書類を見つめていた。


オスカーは書類の該当箇所を開いた。


「監査記録の関連資料に、前伯爵夫人の名前が記載されています。領地の財務報告書の書式を整備した人物として」


オスカーの視線がナディアに向いた。


「前伯爵夫人とは、レーゲンベルク殿のことですか」


声は穏やかだったが、問いの輪郭は明確だった。公的書類に記された名前と、目の前に座る工房主の名前。書記官としてその一致を確認する義務があった。


「はい。私です」


ナディアの声は揺れなかった。


隠し続けることを、やめた。ブルーメンに来てから、旧姓だけで、工房主としてだけで生きていこうとした。けれど公的な文書が過去と現在を結びつけてしまった。


オスカーは頷き、書類に視線を戻した。


「監査記録には、伯爵領の財務報告が過去九年間にわたり一定の書式で管理されていたことが記されています。この書式は現在、引き継ぎが行われておらず、新任の管理人が再現できなかったと」


ペンを取り、台帳に何かを書き込みながら続けた。


「レーゲンベルク殿が毎月提出される営業報告書の書式は、この領地財務報告の書式と構造が一致しています」


オスカーはペンを置いた。


「この財務書式を作ったのも、あなたですか」


「ええ」


ナディアは短く答えた。


オスカーは書類を揃え、角を整えた。


「もう一点。監査記録の付属資料に、レーゲンベルク子爵家から伯爵家に宛てた抗議書簡が含まれています。子爵家当主エーリヒ・レーゲンベルクの名義で、離縁の手続きに対する異議を申し立てた書簡です」


ナディアの手が、膝の上でわずかに動いた。


兄が。エーリヒが、抗議を出していた。


ナディアは兄に連絡していなかった。離縁の事実すら知らせていなかった。それなのに、兄は独自に離縁を知り、伯爵家に書簡を送っていた。


「この抗議書簡は監査の直接の契機ではありませんが、監査記録に添付されたことで、公的な記録として残ります」


オスカーは書類を棚に戻しながら、いつもの口癖を添えた。


「記録に残しておきます」


ナディアは立ち上がり、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます、ブラント書記官」


「レーゲンベルク殿」


オスカーが呼び止めた。


「当特区の営業届出および月次報告に、何ら問題はありません。過去の身分がどうであれ、ブルーメンにおけるあなたの立場は工房主です。それは変わりません」


事務的な声だった。だがその事務的な言葉が、ナディアには一つの保証として届いた。


工房に戻ると、ルシアンが待っていた。


作業台の前に立ち、外套を腕にかけたまま、入口の近くにいた。ナディアが扉を開けると、すぐに向き直った。


「お待たせしました、カヴァリエ様」


「いえ。お忙しいところ申し訳ありません」


ルシアンは作業台に近づかず、工房の中央で足を止めた。いつもなら布を手に取る手が、今日は革鞄の持ち手を握ったままだった。


「お伝えしたいことがあります」


ルシアンの声には、いつもの抑えた調子の下に、硬さがあった。


「ヴァイスフェルト伯爵領の状況について、商会の情報網で詳しい報告が入りました」


ナディアは椅子に座らず、作業台の向こう側に立った。ルシアンとの間に作業台がある。その距離が、今日は必要だった。


「帳簿の不備は当初の収穫祭の中止にとどまらず、領地全体の財務管理が停止しています。領民への分配が滞り、直訴が王家に届いた。それが監査の契機になった」


ルシアンは淡々と話した。


「加えて、新しい伯爵夫人が前任者の業務記録を処分したという報告があります。帳簿だけでなく、領民名簿、作付け計画、陳情の記録。すべてが失われた」


ナディアの指が、作業台の縁を掴んだ。


あの記録は、九年かけて作ったものだった。領民の名前と畑の番号、収穫量の推移、陳情の内容と対応の履歴。すべて手書きで、控えは取っていなかった。控えを取る必要がなかった。あの場所にずっといるつもりだったから。


「領民の中には他領への転出を始めた者もいるようです。給与の遅配で私兵の士気も下がっている」


ルシアンは報告を終え、口を閉じた。


ナディアは黙って聞いていた。一つ一つの情報が、かつて自分が管理していたものの崩壊として胸に落ちてくる。あの帳簿がなければ分配はできない。あの名簿がなければ陳情の対応はできない。分かっていた。分かっていたが、それを聞くのは別のことだった。


あの領地は私が回していた。


その言葉が、初めて自分自身に向けて浮かんだ。他者に言うためではなく、自分の中で認めるために。九年間の仕事は意味があった。あの場所を維持していたのは私だった。壊れたことが、その証明になってしまった。


ナディアはルシアンを見た。


「カヴァリエ様。一つ伺います」


「はい」


「この情報は、いつ届いたものですか」


ルシアンの表情が、かすかに変わった。


「三日前です」


「伯爵領からブルーメンまで、書簡で五日から七日かかるはずです。商人ギルドの口伝でも二週間以上。三日前に届いた情報が、これだけ詳しいのは」


ナディアの声は静かだった。問い詰めているのではない。ただ、事実の不整合を確認していた。


「商人にしては、速すぎませんか」


ルシアンは答えなかった。しばらくの沈黙があった。


「商会独自の伝達手段があります」


それだけだった。それ以上の説明はなく、ルシアンは視線を落とした。


ナディアはその沈黙の中に、何かを感じた。色覚のことを打ち明けたときとは違う種類の沈黙。隠し切れないものがにじんでいるのではなく、まだ隠しているものがあるという沈黙。


追及はしなかった。今はまだ、その問いを突きつける覚悟がなかった。ルシアンの色覚のことを知り、秘密を共有した信頼がある。その信頼が揺らぎかけている。揺らぎかけているが、壊すつもりはなかった。


「そうですか」


ナディアは短く答え、作業台から手を離した。


ルシアンは革鞄を持ち直し、外套を羽織った。


「来月分の染料は予定通りお届けします」


「ええ。お願いいたします」


ルシアンが工房を出ていくとき、扉の前で一瞬足を止めた。何か言おうとしたように見えたが、軽く頭を下げただけで出ていった。


扉が閉まった。


工房の中に、ナディアだけが残った。作業台の上には織りかけの布が広げてある。藍と赤の糸が交差する布。ルシアンが手触りで選んだ布。


その布を見つめながら、オスカーから聞いた兄の抗議書簡のことを考えた。手紙を出さなかった兄が、ナディアに連絡することなく、伯爵家に直接抗議していた。疎遠だが断絶ではなかった。知らないところで、兄は動いていた。


日が暮れてから、マルタが工房に来た。


片手に鍋を提げている。いつもの差し入れだった。だが今日のマルタは、鍋を作業台に置いた後、しばらくナディアの顔を見つめていた。


「書記官のところに呼ばれたって聞いたよ」


「ええ」


「伯爵領の監査の話だろ」


ブルーメンは小さな町だ。書記官事務所に呼ばれたことは、半日で町中に知れる。


「ええ。私が元伯爵夫人だったことは、もう公的に記録されています」


「知ってたよ」


マルタは腰に手を当てた。


「ヘルミーネから聞いてた。姪が伯爵家に嫁いだって。あたしは最初からあんたが誰か分かってて、鍵を渡したんだ」


ナディアは瞬いた。


「叔母が」


「あの人は心配してたよ。あの子は大丈夫だろうかって。手紙を出そうとして、出せなくて。あんたに会いたかったんだと思うよ、最後まで」


マルタの声はいつもより低かった。ぶっきらぼうな口調は変わらないが、言葉の間に普段はない間があった。


ナディアは俯いた。作業台の木目を見つめていた。


叔母が知っていた。叔母はナディアが伯爵家にいることを知っていて、心配していて、手紙を出せなくて、それでも工房を残した。


「泣いていいんだよ、ナディア」


その声に、ナディアの肩が震えた。


ナディア、とマルタが呼んだ。「あんた」ではなく。名前で。


マルタがナディアの名前を口にしたのは、これが初めてだった。ブルーメンに来てから、ずっと「あんた」だった。それが今、名前に変わった。


目の奥が熱くなった。涙が出そうになった。


出なかった。


ナディアは顔を上げ、織機を見た。藍の経糸が張ってある。踏み木が待っている。


「ありがとうございます、マルタさん」


声は震えなかった。


泣けなかった。泣いていいと言われても、まだ自分に許可を出せなかった。九年間、泣かないことで自分を保ってきた。その仕組みは、名前を呼ばれたくらいでは壊れなかった。


けれどマルタが「ナディア」と呼んだことが、耳の奥にいつまでも残っていた。


マルタは何も言わずに鍋を置いたまま出ていった。


一人になった工房で、ナディアは織機の前に座った。


糸に触れる。筬を通す。踏み木を踏む。手が動く限り、考えずに済む。


けれど今日は、手を動かしながらも、頭の中を言葉が巡っていた。


あの領地は私が回していた。


初めて、自分の言葉で、自分に向けて認めた。誰かに訴えるためではなく、証明を求めるためでもなく。ただ事実として。


そしてマルタが呼んだ名前が、まだ耳の中にあった。


ルシアンの情報の速さが、まだ胸に引っかかっていた。あの人は商人にしては速すぎる。色覚のことを隠していたように、まだ何かを隠している。


それでも、今日も染料は届いた。工房は動いている。織機の前に座る自分がいる。


工房の窓から夜風が入ってきた。ルシアンが直した窓枠から。軋みのない、滑らかな窓枠から。


この工房を、ただの安全な場所だとは思えなくなっていた。外の世界の情報がここに届き、過去がここに追いついてくる。それでも織機の前に座っている。座ることを、自分で選んでいる。


糸を通す手は止まらなかった。

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