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九年間隣にいた妻の名を、夫は離縁状で初めて書いた  作者: 月雅


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第7話「見えない赤」

工房の窓から射す夕陽が、作業台の上の織物を染めていた。


経糸と緯糸が交差する布の表面に、橙から朱へ移る光が滑っている。ナディアは染め上がったばかりの新作を窓辺に広げ、色の出具合を確認していた。


今回はルシアンの商会から仕入れた染料の中に、藍とは別の赤系の染料が含まれていた。少量のサンプルとして先月の納品に添えられていたもので、試しに糸を染めてみたところ、深く落ち着いた赤が出た。その赤い糸を緯糸に使い、藍の経糸と組み合わせて一枚の布を織った。


仕上がりには満足していた。打ち込みは均一で、二色の糸が交差する部分の色の重なりが複雑な陰影を作っている。これまでの藍一色の布とは違う表情があった。


窓の外で、石畳を踏む足音が近づいてきた。


扉が叩かれた。


「お約束の時間に参りました」


ルシアンだった。月次の納品確認の日だった。ナディアは扉を開け、工房に招き入れた。


「どうぞ、カヴァリエ様」


ルシアンは外套を脱ぎ、片手で畳んで腕にかけた。いつもの所作だった。工房に入ると、作業台の上に広げたままの布にすぐ目を向けた。


「新作ですか」


「ええ。先月いただいたサンプルの染料を使いました」


ナディアは布を手に取り、ルシアンの前に広げた。


「この赤は深いですね。藍と合わせると、光の加減で色が変わって見えます」


ルシアンの手が、布に向かって伸びかけた。


止まった。


ナディアの言葉に対する反応がなかった。「赤」という言葉に、何も返さなかった。


布を受け取ったルシアンは、いつものように指の腹で表面をなぞった。裏面の打ち込みを確認し、端を引いて張力を見る。手つきは丁寧で、正確だった。


「質が良い。糸の組み合わせが繊細です」


色の話をしなかった。


ナディアは黙ってルシアンの手元を見ていた。布の表面を撫でる指が、赤い糸の上を通り過ぎていく。指は布の質感を確かめているが、色を見ているようには見えなかった。


マルタの言葉が頭をよぎった。あの商人さん、色の話は全然しないのに、あんたの布の話だけは長いねえ。


「カヴァリエ様」


「はい」


「この布の赤は、お好みですか」


ルシアンの指が止まった。布の上で、動かなくなった。


沈黙が落ちた。工房の中に、夕陽の光だけが静かに射している。


ルシアンは布から手を離さなかった。指の腹が赤い糸の上に触れたまま、何かを探すように微かに動いた。


「赤、ですか」


その声には、いつもの抑えた調子とは違う、かすかな揺れがあった。


ナディアはルシアンの横顔を見た。視線が布の上にあるが、何かを見ようとして見えていないような目だった。


「見えていないのですか」


声は静かだった。問い詰めるつもりはなかった。ただ、今までの違和感が一つの線になった瞬間だった。


色の名前を言わない。染料を嗅覚と手触りで語る。「良い色だ」とは決して言わず、「良い質です」と言う。布の品質を手で判断し、色については一切触れない。


ルシアンは布から手を離した。


長い沈黙があった。


「赤と緑の区別が、つきません」


低い声だった。いつもの事務的な口調ではなく、言葉を一つずつ選んで並べるような話し方だった。


「染料の品質は、嗅覚と手触りで判別しています。粒子の大きさ、定着の度合い、匂いの深さ。それで十分に品質は分かる。ですが、色そのものは」


ルシアンは視線を布から外し、工房の壁に向けた。


「この布が赤いのか、どのくらい深い赤なのか。私には分かりません」


ナディアは何も言わなかった。怒りは湧かなかった。嘘をつかれたという感覚もなかった。


この人も、何かを隠して生きていたのだ。


染料を商う人間が、色を見ることができない。それがどれほどの引け目であるかは、想像がついた。自分が九年間、銘を入れられなかったのと同じように。持っているはずのものを持てない、あるいは持っていないことを隠し続ける、その重さ。


「それでも、私の布を選んでくださったのですか」


ナディアの声は平坦だった。感情を込めたつもりはなかった。ただ確認したかった。


ルシアンは壁から視線を戻し、ナディアを見た。


「手触りで選びました」


一拍、間があった。


「この布に触れたとき、指先が覚えていたいと思った。それは色ではなく、織り手の手が作った質です」


ルシアンの声は静かだったが、震えてはいなかった。事実を述べるように、けれどいつもの事務的な報告とは違う重さで、その言葉を置いた。


ナディアの胸の奥で、何かが軋んだ。


色が見えない人が、私の布を選んだ。色ではなく、手触りで。色ではなく、私が織った布そのもので。


それは——色ではなく、私を選んだということではないのか。


その考えが浮かんだ瞬間、恐怖が追いかけてきた。期待してはいけない。期待して裏切られることの痛みを、九年分知っている。名前を呼ばれることを期待しなくなるまでに、九年かかった。


「誰にも言っていません。商会の助手と、ごく一部の人間しか知らない」


ルシアンは視線を落とした。


「染料商が色を見分けられないと知れたら、信用を失います。だから嗅覚と触覚で代替してきた。それで不足したことはない。ただ、あなたの前では」


言葉が途切れた。ルシアンは口を閉じ、何か言葉を探すように間を空けた。


「隠し通すこともできた。ですが、あなたが赤と言ったとき、頷くことができなかった」


ナディアはルシアンの横顔を見つめていた。夕陽が傾き始め、工房の中の光が変わっている。赤い光が褪せて、灰色がかった影が壁に伸びていた。ルシアンにはこの光の変化も、見えている色とは違うのだろう。


「カヴァリエ様。私はこの布を、良い布だと思っています」


ルシアンが顔を上げた。


「色が見えなくても、この布の質が変わるわけではありません。あなたがそう教えてくださったのではないですか。布の質は織り手の過去では決まらないと」


ルシアンの目が、わずかに見開かれた。


自分が言った言葉を返された。あの日、帳簿の書式のことでナディアの過去に触れかけたとき、「変わりません」と言ったのはルシアンだった。今、同じ構造の言葉がナディアからルシアンに返されている。


「ありがとうございます、ナディア殿」


ルシアンの声はいつもの抑えた調子に戻っていたが、語尾にかすかな柔らかさがあった。


「来月の染料は予定通りお届けします。赤の染料も、ご希望であれば継続して」


「ええ。お願いいたします」


ルシアンは外套を羽織り、軽く頭を下げて工房を出ていった。


扉が閉まった後、ナディアは作業台の前に立ったまま動かなかった。


赤い布が、夕陽を失って静かな色に沈んでいた。この赤をルシアンは見ることができない。それでも、この布を「指先が覚えていたい」と言った。


ナディアは織機の前に座った。


新しい経糸が張ってある。次の布を織り始める準備はできていた。セルヴィッジの端、銘を入れる位置に、指を置いた。


叔母の布には「ヘルミーネ」の銘があった。ナディアの布には、まだ何もない。


指がその余白に触れている。今日は、離れなかった。しばらくの間、指はそこにあった。


入れなかった。まだ。でも、指は離れなかった。


色が見えない指が、私の布を覚えていたいと言った。あの手触りは、色よりも正確に何かを捉えていたのかもしれない。


もし誰かが、色ではなく、銘でもなく、ただ手触りだけで私の布を選んでくれるなら。


それならば、いつかこの余白に名前を入れたとき、その名前は見えなくても伝わるのだろうか。


灯りを消す前に、窓枠に手を置いた。少し前から軋んでいた窓枠だった。木が湿気で膨らんで、開け閉めのたびに引っかかっていた。


明日、直そうと思っていた窓枠。


指を滑らせて気づいた。軋みが消えていた。蝶番の部分に新しい油が塗られ、膨らんでいた木が薄く削られて調整されている。


ナディアは窓枠から手を離した。


マルタではない。マルタなら黙ってやらない。必ず「直しといたよ」と言う。


オスカーでもない。書記官が工房の窓枠を直す理由がない。


ナディアは窓を閉め、工房を出た。夜のブルーメンの石畳を歩きながら、窓枠のことを考えていた。


色が見えないのに、染料を商っている人がいる。秘密を打ち明けた日の夜に、工房の窓枠が直されている。


商取引の範囲を超えている。それは分かっていた。


けれど今は、そのことを追及する気にはならなかった。ただ、あの人にはまだ何か別のものがあるような気がした。色覚のことだけでは説明がつかない何かが。


窓枠を直す手際の良さ。外套を片手で畳む滑らかな所作。商人にしては無駄のない身のこなし。


まだ、分からないことがある。


この人の全部が見えているわけではない。でも今日、一つだけ見えた。それで十分だと思った。


工房に戻り、灯りを消した。暗闇の中で、織機のセルヴィッジの余白が、指の感触として残っていた。

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