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九年間隣にいた妻の名を、夫は離縁状で初めて書いた  作者: 月雅


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第6話「叔母の引き出し」

差出人の名前が書けない手紙は、叔母の引き出しにもあった。


工房の奥にある叔母ヘルミーネの机を整理していたときだった。引き出しの底に、便箋が数枚重なって入っていた。黄ばんだ紙の束を取り出してみると、それは書きかけの手紙だった。


宛先は、ナディアの母——叔母にとっての姉の名前が書かれている。文面は日常の報告から始まっていた。工房の仕事のこと、ブルーメンの季節の移り変わり、染料の仕入れ先が変わった話。途中まで書かれた文字は叔母の筆跡だと分かった。丁寧で、少し右に傾く癖のある字。


しかし、差出人欄は空白だった。


便箋の末尾にあるはずの署名も、封筒に書くはずの差出人の名前も、どの手紙にも記されていなかった。三通とも同じだった。宛先は書ける。本文も書ける。でも、自分の名前だけが書けない。


ナディアは手紙を机の上に並べた。


叔母も、名前を書けなかった人だったのだ。


叔母の布には「ヘルミーネ」の銘が織り込まれていた。糸に名前を刻むことはできた。けれど手紙に、姉への手紙に、自分の名前を書くことはできなかった。銘を入れることと、人に名乗ることは、違うのかもしれない。


机の横に便箋と羽根ペンがあった。ナディアはそれを手に取り、兄エーリヒへの手紙を書こうとした。


宛先は書けた。「レーゲンベルク子爵家当主 エーリヒ・レーゲンベルク様」。兄の名前を書くのに迷いはなかった。


本文に入ろうとして、ペン先が止まった。何を書けばいいのか。離縁したこと。ブルーメンにいること。工房を開いたこと。兄はまだ何も知らないはずだった。ナディアから連絡しない限り、離縁の事実すら伝わっていないだろう。伯爵領とレーゲンベルク子爵領の間に日常的な書簡のやり取りはなく、兄との関係はこの九年間ずっと疎遠だった。


本文を三行書いて、止めた。


差出人の名前を書く段になって、ペンが進まなかった。「ナディア・レーゲンベルク」。旧姓に戻った名前。その名前で兄に手紙を出すことは、離縁した事実を突きつけることになる。兄がこの婚姻を推し進めた経緯を思えば、それは兄への報告であると同時に、何かもっと重い意味を持つ気がした。


手紙を畳み、叔母の書きかけの手紙と一緒に引き出しに戻した。


今は、出さない。


午後、ルシアンが工房を訪れた。


今回は取引の話ではなかった。先月分の納品確認は済んでおり、来月の発注も書面で処理していた。ルシアンは工房に入ると、作業台の上に広げてあった営業報告書に目を止めた。


「書記官への月次報告ですか」


「ええ。ブルーメンの営業者は月次で収支報告を出す決まりがあるので」


ナディアは報告書の数字を書き込みながら答えた。ルシアンは作業台の隅に腰掛けず、少し離れた場所に立ったまま工房の中を見回していた。


しばらく沈黙があった。ルシアンは言葉を選ぶように間を空けてから、口を開いた。


「ナディア殿の報告書は、帳簿の形式が独特ですね」


「そうですか」


「この収支の分類方法は、個人の工房主が使う書式ではない。どちらかといえば、領地の財務管理に近いものです」


ナディアのペンが止まった。


ルシアンは視線を報告書に落としたまま続けた。


「商人として各地の帳簿を見る機会が多いので。この書式は、帳簿を長年管理していた方の癖が出ています」


静かな声だった。断定はしていない。だが、触れている。


ナディアはペンを置き、ルシアンを見た。


「私のことを調べたのですか」


ルシアンは視線を上げた。一瞬、何か言葉を探すように間があった。


「いえ。調べてはいません。ただ、帳簿の書式を見れば推測はできます」


「推測の中身を伺っても」


「あなたが以前、大きな組織の経理を担っていたのではないか、という推測です。それ以上は、あなたが話されない限り」


ルシアンの声は変わらなかった。前回の訪問でも、その前でも、同じ調子だった。染料の品質を語るときと同じ、抑えた声。


「変わりません。布の質は織り手の過去では決まりませんので」


その一言に、ナディアの胸が揺れた。


知っている。この人はおそらく、私が元伯爵夫人であることに見当をつけている。それでも、態度が変わらない。染料商としての丁寧さも、取引先への敬意も、何も変わらない。


それが怖かった。安堵と同時に。


知られても変わらない関係があるのだとしたら——いや、今はまだ信じてはいけない。この人が何を知り、何を目的にしているのか、まだ分からないのだから。


「そうですか」


ナディアは短く答え、ペンを取り直した。


「ありがとうございます、カヴァリエ様。報告書を仕上げてしまいますので」


「ええ。失礼します」


ルシアンは軽く頭を下げて工房を出た。扉が閉まった後も、ナディアはしばらくペンを動かせなかった。


翌日、書記官事務所にナディアの月次報告書が届いた。


オスカーはいつものように書類を処理していた。報告書に目を通し、数字を照合し、台帳に転記する。ナディアの報告書は毎月、他の営業者の報告書と明らかに異質だった。


収支の分類が細かい。支出を材料費、設備維持費、輸送関連費と項目ごとに分け、月次の推移を比較可能な形で記載している。一般の工房主は売上と支出の合計だけを書く。ナディアの報告書は、領地の年次報告に使われる形式に近かった。


オスカーは報告書を二度読んだ。


書式の一致は偶然ではない。この分類方法は王宮書記局が推奨する領地財務報告の標準書式を簡略化したものだ。一般の商人がこの書式を知っているはずがない。つまり、この工房主は以前、貴族家の財務に関わっていた可能性がある。


オスカーは報告書を台帳に転記し、原本を保管用の棚に戻した。


「記録に残しておきます」


いつもの口癖を、誰もいない事務所で呟いた。


夜、工房に戻ったナディアは、叔母の机の引き出しを再び開けた。


書きかけの手紙を取り出し、もう一度読んだ。叔母が姉に書こうとした日常の報告。そして空白の差出人欄。


叔母も差出人の名前が書けなかった。ナディアも兄への手紙の差出人名が書けなかった。


この工房には、名前を持てない人間が引き寄せられるのかもしれない。叔母がそうだったように。そして今、私がそうであるように。


手紙を引き出しに戻し、兄宛ての手紙も一緒にしまった。


ルシアンの言葉がまだ耳に残っていた。「変わりません」と、あの人は言った。過去を知っていても態度が変わらないと。


それを信じたいと思う自分がいた。同時に、信じることが怖い自分がいた。


知られても変わらない関係。そんなものが本当にあるのか。九年間、名前すら呼ばれなかった場所にいた人間が、それを信じていいのか。


答えは出なかった。ただ、ルシアンがどこまで知っているのかは気になった。帳簿の書式から推測したと言っていたが、商人の情報網で調べれば、元伯爵夫人の離縁くらいは耳に入る話だろう。あの人は本当に、推測だけで留めているのか。


窓の外は暗かった。ブルーメンの夜の静けさの中で、叔母の手紙のことを考えた。


叔母は差出人名を書けなかった。でも工房は遺した。銘入りの布を織り続け、この場所を残した。名前が書けないことと、名前がないことは、違う。


叔母の引き出しには、出されなかった手紙がある。私の引き出しにも、出さなかった手紙がある。


それでも、叔母はここにいた。私も、ここにいる。

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