第5話「壊れた祭り」
壊れたと聞いて、安堵したのだろうか、私は。
その問いが浮かんだのは、マルタの雑貨店で行商人の話を聞いた瞬間だった。
「ヴァイスフェルトの収穫祭が中止だとさ」
行商人は埃まみれの外套のまま、マルタの店のカウンターに肘をついていた。この男は月に一度ブルーメンに立ち寄る常連で、各地の伯爵領を回って小物を売り歩いている。ナディアはたまたまマルタの店に糸を買いに来た折だった。
「中止って、あの領地の収穫祭は毎年盛大にやるんじゃなかったのかい」
マルタが干し果物を秤に載せながら聞き返した。
「それがさ。帳簿が見つからないんだと。誰がどの畑でどれだけ収穫したか、記録がまるでなくて、分配の計算ができなかったらしい。管理人を雇ったが、元の書式が分からないって匙を投げたそうだ」
ナディアの手が、糸束を掴んだまま止まった。
帳簿が見つからない。
あの帳簿は、ナディアが作った。伯爵領の全農地の作付け面積、収穫量の推移、分配比率を一覧にした台帳。毎年の収穫祭はあの台帳をもとに運営されていた。
「新しい奥方が来てから色々と変わったって話だよ。前の管理のやり方を全部やめて、新しくしようとしたらしいんだけど、何も回らなくなったって」
行商人は肩をすくめた。
「領民が怒ってるよ。収穫祭がないなんて、あの領地じゃ前代未聞だからな」
マルタがちらりとナディアを見た。ナディアは何も言わなかった。糸束を手に取り、代金を置いて、「ありがとうございます、マルタさん」とだけ言って店を出た。
工房に戻り、織機の前に座った。
もう私の仕事ではない。
あの帳簿を誰が管理し、誰が収穫祭を仕切り、誰が領民に配分を説明するか。それは今の伯爵と、今の伯爵夫人の仕事だ。
筬を通し、踏み木を踏む。杼が経糸の間を滑る。
もう私の仕事ではない。
そう自分に言い聞かせながら、手は織機から離れなかった。糸を通し、打ち込み、また糸を通す。体が動いている限り、余計なことを考えずに済んだ。
ルシアンの商会から届いた藍染料で染めた糸を、初めて経糸に使っていた。深い色の糸が、筬の間を走るたびに光を吸い込む。品質の違いは歴然だった。この染料で織れば、今までの試し織りとは別の次元の布ができる。
手を止めずに、一枚の布を織り上げた。
藍染料を使った最初の本格的な一枚。作業台に広げて確認する。打ち込みは均一、端の処理も正確。深い色が繊維に定着して、ムラがない。手元金で仕入れた安い糸の時とは比べものにならなかった。
布の端に、セルヴィッジの余白がある。銘を入れる場所。
ナディアは余白を見つめたが、手は伸びなかった。
夕方、ルシアンが納品の確認に工房を訪れた。
「先月分の染料、問題はありませんでしたか」
「ええ。品質は申し分ありません。これが今月の織り上がりです」
ナディアは藍染料で織った布を作業台に広げた。ルシアンは布を手に取り、いつものように指の腹で表面をなぞった。裏面の打ち込みを確認し、端を引いて張力を見る。
「良い質です。前の試し織りから格段に上がっている」
色の話はしなかった。「良い色です」とは言わず、「良い質です」と言った。ナディアはその言い回しを、もう何度か聞いていた。
ルシアンは布を丁寧に戻し、それからセルヴィッジの端に指を滑らせた。前に工房に来たときと同じ仕草。銘の位置を確認する動き。
「銘がないのは惜しい」
今度は言葉にした。前回は指で確認しただけだった。今回は、はっきりとそう言った。
「この品質で銘なしのまま出すのは、もったいないことです」
ナディアは答えに詰まった。
「まだ、その段階ではないと思います」
「そうですか」
ルシアンはそれ以上踏み込まなかった。布から手を離し、納品の記録を鞄に書き込んだ。
「来月分の染料は予定通りお届けします。何かご要望があれば」
「いえ。今のままで結構です。ありがとうございます、カヴァリエ様」
ルシアンは頷き、工房を出ていった。
日が暮れてから、マルタが工房に来た。
「あんた、食べてないだろ」
黒パンと煮込みの入った鍋を置きながら、マルタは織機の上の布を見た。
「いい布じゃないか。藍の具合がいい」
「ありがとうございます」
「あの商人さんの染料かい」
「ええ」
マルタは腰に手を当てて、何か考えるようにナディアを見た。
「あの商人さんさ、色の話は全然しないのに、あんたの布の話だけは長いねえ」
ナディアは煮込みの鍋に手を伸ばしながら、聞き流そうとした。
「商取引ですから。布の品質は取引に直結しますし」
「そうかい。でもね、染料屋が色の話をしないってのは変だと思うよ、あたしは」
マルタはそれだけ言って、「鍋は明日返しな」と出ていった。
一人になった工房で、ナディアは煮込みを食べた。
マルタの指摘が頭に残った。色の話をしない染料商。それはたしかに奇妙だった。だが今はそれよりも、行商人が語った伯爵領の話のほうが胸の底に沈んでいた。
帳簿が見つからない。収穫祭が中止になった。管理人を雇ったが匙を投げた。
私がいなくなって、壊れた。
その事実が何を意味するのか、ナディアには分かっていた。九年間の仕事には意味があった。あの領地を回していたのは私だった。
だが、壊れるまで誰も気づかなかった。
九年間そこにいて、いなくなるまで誰にも見えなかったのなら——それは存在していたと言えるのだろうか。
木の匙を置いた。
もう私の仕事ではない。あの領地に戻る理由もない。今は自分の工房と、自分の布と、自分の取引がある。
それでも。
この手が覚えている。帳簿の書式を。収穫量の計算を。領民の名前と畑の番号を。覚えているのに、もう使わない。使う場所がない。使ってほしいと言う人も、いない。
織機の前に戻った。灯りの下で、藍に染まった糸が静かに光っていた。
もう私の仕事ではない。そう言い切れる自分がいる。あの領地にいた頃の私なら、夜通しでも帳簿を作り直しに走っただろう。
今は走らない。走らないと決めた。
それが強さなのか、それとも別の何かなのか、まだ分からなかった。




