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九年間隣にいた妻の名を、夫は離縁状で初めて書いた  作者: 月雅


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第5話「壊れた祭り」

壊れたと聞いて、安堵したのだろうか、私は。


その問いが浮かんだのは、マルタの雑貨店で行商人の話を聞いた瞬間だった。


「ヴァイスフェルトの収穫祭が中止だとさ」


行商人は埃まみれの外套のまま、マルタの店のカウンターに肘をついていた。この男は月に一度ブルーメンに立ち寄る常連で、各地の伯爵領を回って小物を売り歩いている。ナディアはたまたまマルタの店に糸を買いに来た折だった。


「中止って、あの領地の収穫祭は毎年盛大にやるんじゃなかったのかい」


マルタが干し果物を秤に載せながら聞き返した。


「それがさ。帳簿が見つからないんだと。誰がどの畑でどれだけ収穫したか、記録がまるでなくて、分配の計算ができなかったらしい。管理人を雇ったが、元の書式が分からないって匙を投げたそうだ」


ナディアの手が、糸束を掴んだまま止まった。


帳簿が見つからない。


あの帳簿は、ナディアが作った。伯爵領の全農地の作付け面積、収穫量の推移、分配比率を一覧にした台帳。毎年の収穫祭はあの台帳をもとに運営されていた。


「新しい奥方が来てから色々と変わったって話だよ。前の管理のやり方を全部やめて、新しくしようとしたらしいんだけど、何も回らなくなったって」


行商人は肩をすくめた。


「領民が怒ってるよ。収穫祭がないなんて、あの領地じゃ前代未聞だからな」


マルタがちらりとナディアを見た。ナディアは何も言わなかった。糸束を手に取り、代金を置いて、「ありがとうございます、マルタさん」とだけ言って店を出た。


工房に戻り、織機の前に座った。


もう私の仕事ではない。


あの帳簿を誰が管理し、誰が収穫祭を仕切り、誰が領民に配分を説明するか。それは今の伯爵と、今の伯爵夫人の仕事だ。


筬を通し、踏み木を踏む。杼が経糸の間を滑る。


もう私の仕事ではない。


そう自分に言い聞かせながら、手は織機から離れなかった。糸を通し、打ち込み、また糸を通す。体が動いている限り、余計なことを考えずに済んだ。


ルシアンの商会から届いた藍染料で染めた糸を、初めて経糸に使っていた。深い色の糸が、筬の間を走るたびに光を吸い込む。品質の違いは歴然だった。この染料で織れば、今までの試し織りとは別の次元の布ができる。


手を止めずに、一枚の布を織り上げた。


藍染料を使った最初の本格的な一枚。作業台に広げて確認する。打ち込みは均一、端の処理も正確。深い色が繊維に定着して、ムラがない。手元金で仕入れた安い糸の時とは比べものにならなかった。


布の端に、セルヴィッジの余白がある。銘を入れる場所。


ナディアは余白を見つめたが、手は伸びなかった。


夕方、ルシアンが納品の確認に工房を訪れた。


「先月分の染料、問題はありませんでしたか」


「ええ。品質は申し分ありません。これが今月の織り上がりです」


ナディアは藍染料で織った布を作業台に広げた。ルシアンは布を手に取り、いつものように指の腹で表面をなぞった。裏面の打ち込みを確認し、端を引いて張力を見る。


「良い質です。前の試し織りから格段に上がっている」


色の話はしなかった。「良い色です」とは言わず、「良い質です」と言った。ナディアはその言い回しを、もう何度か聞いていた。


ルシアンは布を丁寧に戻し、それからセルヴィッジの端に指を滑らせた。前に工房に来たときと同じ仕草。銘の位置を確認する動き。


「銘がないのは惜しい」


今度は言葉にした。前回は指で確認しただけだった。今回は、はっきりとそう言った。


「この品質で銘なしのまま出すのは、もったいないことです」


ナディアは答えに詰まった。


「まだ、その段階ではないと思います」


「そうですか」


ルシアンはそれ以上踏み込まなかった。布から手を離し、納品の記録を鞄に書き込んだ。


「来月分の染料は予定通りお届けします。何かご要望があれば」


「いえ。今のままで結構です。ありがとうございます、カヴァリエ様」


ルシアンは頷き、工房を出ていった。


日が暮れてから、マルタが工房に来た。


「あんた、食べてないだろ」


黒パンと煮込みの入った鍋を置きながら、マルタは織機の上の布を見た。


「いい布じゃないか。藍の具合がいい」


「ありがとうございます」


「あの商人さんの染料かい」


「ええ」


マルタは腰に手を当てて、何か考えるようにナディアを見た。


「あの商人さんさ、色の話は全然しないのに、あんたの布の話だけは長いねえ」


ナディアは煮込みの鍋に手を伸ばしながら、聞き流そうとした。


「商取引ですから。布の品質は取引に直結しますし」


「そうかい。でもね、染料屋が色の話をしないってのは変だと思うよ、あたしは」


マルタはそれだけ言って、「鍋は明日返しな」と出ていった。


一人になった工房で、ナディアは煮込みを食べた。


マルタの指摘が頭に残った。色の話をしない染料商。それはたしかに奇妙だった。だが今はそれよりも、行商人が語った伯爵領の話のほうが胸の底に沈んでいた。


帳簿が見つからない。収穫祭が中止になった。管理人を雇ったが匙を投げた。


私がいなくなって、壊れた。


その事実が何を意味するのか、ナディアには分かっていた。九年間の仕事には意味があった。あの領地を回していたのは私だった。


だが、壊れるまで誰も気づかなかった。


九年間そこにいて、いなくなるまで誰にも見えなかったのなら——それは存在していたと言えるのだろうか。


木の匙を置いた。


もう私の仕事ではない。あの領地に戻る理由もない。今は自分の工房と、自分の布と、自分の取引がある。


それでも。


この手が覚えている。帳簿の書式を。収穫量の計算を。領民の名前と畑の番号を。覚えているのに、もう使わない。使う場所がない。使ってほしいと言う人も、いない。


織機の前に戻った。灯りの下で、藍に染まった糸が静かに光っていた。


もう私の仕事ではない。そう言い切れる自分がいる。あの領地にいた頃の私なら、夜通しでも帳簿を作り直しに走っただろう。


今は走らない。走らないと決めた。


それが強さなのか、それとも別の何かなのか、まだ分からなかった。

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