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九年間隣にいた妻の名を、夫は離縁状で初めて書いた  作者: 月雅


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第4話「藍の匂い」

糸を選ぶ手は迷わないのに、どの色に染めるかだけが決められない。


ナディアは作業台の上に並べた糸束を見つめていた。マルタの雑貨店で買い足した麻糸と、市場で仕入れた羊毛糸。素材の手触りで選ぶのは簡単だった。問題はこの先、染めの段階だった。


手元にある染料は叔母が残した瓶の底のわずかな残り。それで染められる量はせいぜい糸束ひとつ分。新しい染料を仕入れなければ、商品として出せる布は織れない。


ルシアンの提案書が、鞄の中に入ったままだった。


工房の扉が叩かれたのは、その日の午前中だった。


「お約束の時間に参りました」


ルシアンは革の鞄を片手に提げて立っていた。前回と同じ旅装だが、外套の埃は払われている。腰の短剣は商人の護身武装として見慣れたもので、ナディアはもう気にしなかった。


「どうぞ、カヴァリエ様」


工房に入ったルシアンは、作業台の脇に革鞄を置き、中から小さな瓶を三つ取り出した。封蝋で密閉された褐色の瓶。


「染料のサンプルをお持ちしました。提案書の卸値で扱う品の実物です」


ナディアは一つ目の瓶を受け取り、封蝋を丁寧に剥がした。蓋を開けると、鼻の奥に届く濃い匂いが広がった。土と植物が入り混じった、深い香り。


「これがバルテア産の藍ですか」


「ええ。粒子が細かいので、繊維への定着が良い。市場に出回る一般品と比べて、発色の持ちが段違いです」


ルシアンは二つ目の瓶を開け、指先で粉末を少量つまんだ。親指と人差し指の間で擦り合わせる。


「この手触りで分かります。粒が揃っていて、混ぜ物がない。嗅いでいただければ、青臭さの中に甘みがあるのが分かるはずです。それが純度の高い証拠です」


ナディアは二つ目の瓶も嗅いだ。確かに、一つ目とは微妙に匂いが違った。


三つ目の瓶を開けながら、ナディアはルシアンの説明を反芻していた。粒子の細かさ。定着の良さ。発色の持ち。嗅覚と手触りでの判別。


色の名前を、一度も言わなかった。


染料商が染料を語るのに、「この青は」とも「濃い藍で」とも言わない。匂いと質感の話だけで品質を説明する。前に工房を訪れたときも、布の色には触れなかった。


不思議な商人だと思った。だがその違和感は、今はまだ言葉にならなかった。


「品質は確かに良いものだと思います」


ナディアは瓶を作業台に戻し、提案書を鞄から取り出した。


「それで、この卸値についてお聞きしたいことがあります」


ルシアンの目が、わずかに細まった。


「この価格は相場より安すぎます」


ナディアは提案書を広げ、卸値の数字を指で示した。


「バルテア産の藍染料は高級品です。ブルーメンの市場価格は百グラムあたり四ターラー前後。カヴァリエ様のご提案は三ターラーと少し。個人工房への小口取引で、この価格は成立しません」


ルシアンは腕を組み、沈黙した。


ナディアは続けた。


「原価、輸送費、商会の利幅を考えれば、この卸値では赤字か、良くて収支が合う程度のはずです。なぜこの条件を出されたのですか」


「……品質を知ってもらうための初期投資のつもりでした」


「初期投資であっても、相手が返せない施しであれば、それは借りです。施しは受けません」


声は穏やかだったが、語尾に力があった。ルシアンは腕組みを解き、視線をナディアの顔から提案書に落とした。


「では、どの条件であれば」


「百グラムあたり三ターラー半。月の発注量は最低二百グラム。代金は納品後十日以内の現金払い。この条件であれば、カヴァリエ様の利幅も確保できるはずです」


ルシアンは一拍、間を置いた。


「……根拠を伺っても」


「バルテアからの輸送費はブルーメンまで馬五日分。百グラムあたりの輸送原価はおよそ半ターラー。産地での仕入れ値が二ターラー前後。三ターラー半であれば一ターラーの利幅が出ます。小口取引で一ターラーの利幅は悪くないはずです」


ナディアは帳簿を管理していた九年間の感覚で数字を出していた。伯爵領の物資調達で培った原価計算が、自然に口をついた。


ルシアンは提案書を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「三ターラー半。月二百グラム。現金後払い十日以内」


復唱して、顔を上げた。


「承知しました。その条件で」


ナディアは新しい契約条件を紙に書き起こし、二部作成した。署名の欄にペンを走らせる。ナディア・レーゲンベルク。ルシアンも自分の名を書き入れた。


最初の契約書が成立した。


ルシアンはサンプルの瓶を一つ、ナディアの手元に残した。


「最初の納品は来週になります。それまではこのサンプルで試していただければ」


「ありがとうございます、カヴァリエ様」


ルシアンは革鞄を閉じながら、ぽつりと言った。


「交渉に慣れておいでですね」


「家計を預かっていましたので」


ナディアはそれだけ答えた。ルシアンは何か言いかけたように口を開いたが、結局は「では、来週」とだけ言い、工房を出ていった。


夜、ナディアは工房の灯りの下で試作品を染めていた。


ルシアンが置いていったサンプルの藍染料を溶かし、試し織りの糸を浸す。液に触れた瞬間、繊維が染料を吸い込む感触が指先に伝わった。確かに、今まで使ったどの染料よりも定着が良かった。


糸を引き上げ、水で洗う。色が落ちない。発色が鮮やかで、ムラがない。


良い染料だった。この品質が毎月安定して届くなら、工房の布は確実に売れる水準に上がる。


手を動かしながら、ナディアの思考は契約のことに向かっていた。今日の取引が成立したことで、工房は経済的に回り始める。手元の金だけで細々と続ける段階から、一歩先へ進んだ。


安堵があった。同時に、喉の奥が締まるような不安もあった。


この取引が切れたら終わる。ルシアンの商会が唯一の高級染料の供給元だ。彼が来なくなれば、工房はまた安い染料で安い布を織るだけの場所に戻る。


他人に依存している。結局、また誰かの都合に左右される場所にいる。


——違う。今回は私が条件を決めた。施しではなく、対等な取引として成立させた。


手を止め、染め上がった糸を灯りにかざした。深い藍色が揺れている。


ふいに、伯爵邸の織り部屋が頭に浮かんだ。あの部屋で、同じように糸を染めていた。染め上がった布は伯爵家の名義で出荷された。銘を入れる余白は、いつも空のままだった。


誰かに頼まれたわけではない。禁じられていたわけでもない。「伯爵家の名義で出す」という慣行に従って、私が自分で銘を入れなかっただけだ。


入れる価値がないと、自分で決めていたのだ。


染め上がった糸を干し竿に掛けた。明日の朝には乾く。それを使って、本格的な織りに入れる。


作業台を片づけながら、今日交わした契約書の控えを確認した。ナディア・レーゲンベルクの署名。商取引の当事者としての自分の名前。


この工房で、この名前で、自分の手で稼ぐ。誰の名義でもなく。


伯爵邸の織り部屋には、銘を入れる余白があった。あの余白を空にしたのは、伯爵の命令ではなく、私自身の手だった。


ならば、次にあの余白を埋めるのも、私自身でなければならない。


灯りを消す前に、藍の匂いが工房に満ちていることに気づいた。土と植物の、深い香り。ルシアンが瓶の蓋を開けたときと同じ匂い。


いつか、この匂いのする布に、自分の名前を織り込む日が来るのだろうか。


まだ、分からなかった。

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