第10話「銘」
ナディアは織機の前に座り、セルヴィッジの位置に糸を通した。
朝の光が窓から射し込んでいた。ルシアンが直した窓枠から、軋みのない滑らかな光が入ってくる。経糸は既に張ってあった。藍と赤の糸を組み合わせた、これまでで最も手間をかけた一枚になる布。
指先に、糸の張力が伝わってくる。この感触を、体が覚えている。幼い頃に叔母に教わり、伯爵邸で九年間繰り返し、ブルーメンに来てからも毎日続けてきた動き。
今日は、その動きの先に、一つだけ違うことをする。
セルヴィッジの端。布の耳。銘を入れる位置。
ナディアは細い糸を手に取った。経糸とは別に用意した、銘を織り込むための糸。叔母の端切れに「ヘルミーネ」の銘が入っていたのと同じ技法で、布の端に名前を刻む。
指が動いた。
「ナ」の一画目を、経糸の間に通す。杼を使わず、指先で一本ずつ糸を拾い、文字の形に織り込んでいく。細かい作業だった。呼吸を整え、一画ごとに糸を引き締める。
「ナ」「デ」「ィ」「ア」。
四文字。
伯爵邸の織り部屋でも、この余白はあった。毎回、布を織り上げるたびに、この位置を見て、何も入れずに布を外した。禁じられたからではなかった。入れる価値がないと、自分で決めていた。
今、入れている。
自分の名前を。自分の手で。誰の許可もなく。
最後の一画を通し終え、糸を結んだ。布の端に、小さな文字が現れた。
「ナディア」
織り込まれた名前を、指でなぞった。糸の凹凸が指先に触れる。消えない。洗っても、畳んでも、この名前は布と一緒にある。
ナディアは布を織機から外し、作業台の上に広げた。
藍と赤の糸が交差する布。光の角度で色が変わる。打ち込みは均一で、端の処理は正確。そしてセルヴィッジに、「ナディア」の四文字。
自分の名前がついた、初めての布。
立ち上がり、窓を開けた。朝の空気が工房に入ってくる。ブルーメンの石畳の匂いと、遠くの市場の声と、山あいの風。
この布を、あの人に見せよう。
その考えが浮かんだとき、胸の中に迷いはなかった。
午後、ルシアンが工房の扉を叩いた。
前回、ナディアが工房を出て以来、日が経っていた。ルシアンからの連絡はなかった。ナディアからも出さなかった。けれど今日、ルシアンは来た。
「入ってください」
ナディアは扉を開けた。
ルシアンは外套を脱ぎ、片手で畳んで腕にかけた。その所作を、ナディアは今は別の目で見ていた。元侯爵家の跡取りが身につけた、幼い頃からの所作。商人の仕草として隠していたもの。
ルシアンは工房の中央で足を止めた。作業台の上に広げられた布に、目が向いた。
「新作ですか」
「ええ」
ナディアは作業台の前に立ち、布をルシアンの方に向けた。
「触ってみてください」
ルシアンは布に手を伸ばした。両手で持ち上げ、指の腹で表面をなぞる。いつもの手つきだった。裏面の打ち込みを確認し、端を引いて張力を見る。
「質が上がっている。糸の組み合わせがこれまでで一番繊細だ」
そう言いながら、指がセルヴィッジに滑った。布の端を、親指の腹がゆっくりとなぞっていく。
指が止まった。
糸の凹凸に触れている。銘の位置。今までずっと空白だった場所に、何かがある。
ルシアンの指が、一文字ずつ辿った。凹凸を読み取るように、ゆっくりと。
「ナディア」
声に出して読んだ。
低い声だった。かすれてもいなかったし、震えてもいなかった。ただ、いつもの事務的な調子とは違っていた。名前の四文字を、一音ずつ確かめるように発音した。
ルシアンは布から顔を上げた。ナディアを見た。
ナディアはその目を見返した。色を正しく見ることができない目。それでも今、ナディアの顔をまっすぐに見ている目。
「ルシアン」
ナディアの口から、その名前が出た。
「カヴァリエ様」ではなかった。敬称のない、名前だけの呼びかけ。初めて、この人の名前を声にした。
九年間、名前を呼ばれなかった。呼ばれることを諦めていた。名前を呼ぶことの重さを、誰よりも知っていた。
だから今、自分から呼んだ。呼ばれる側だけではなく、呼ぶ側にもなれることを、自分に証明するために。
ルシアンの目が、わずかに見開かれた。
「ナディア」
ルシアンが返した。「ナディア殿」ではなく。敬称のない、名前だけの声。
工房の中に、二つの名前が交差した。
しばらく、どちらも何も言わなかった。言葉はいらなかった。名前を呼んだことと、名前を返されたこと。それだけで十分だった。
ルシアンは布を丁寧に作業台に戻した。銘の位置を、もう一度指でなぞった。
「俺にはこの布の色が正しく見えない。あなたの名前の色も分からない。けれどこの四文字の手触りは、ずっと覚えている」
ナディアは頷いた。
「それでいいと思います」
声は穏やかだった。感情を抑えているのではなかった。穏やかでいることを、自分で選んでいた。
工房の外で、足音が聞こえた。
マルタとオスカーが、並んで坂道を上がってきていた。マルタは片手に包みを提げ、オスカーは書類の束を脇に抱えている。
マルタが工房の窓から中を覗いた。作業台を挟んで向かい合う二人の姿が見えた。
マルタは足を止めた。オスカーも止まった。
「ホルン殿、中に入らないのですか」
「入らないよ」
マルタは包みを窓の下の棚に置いた。
「まったく、遅いんだよ」
ぼそりと呟いて、踵を返した。オスカーは窓の中をもう一度見て、書類を抱え直し、マルタの後に続いた。二人の足音が石畳の坂道を下っていった。
工房の中では、ナディアがルシアンと向かい合っていた。
作業台の上に、銘入りの布が広げてある。「ナディア」の四文字が、午後の光の中で静かに糸の形をとどめている。
ルシアンの密偵としての任務はまだ続いている。爵位回復の条件も、バルテア国王の真意も、まだ分からないことだらけだった。ナディアの工房の経営も、この先ずっと安泰とは言えない。伯爵領の最終的な処分がどうなるかも、まだ見えていない。
けれど今、この工房に、自分の名前がある。
布の中に織り込まれた名前。声に出して読まれた名前。そして自分が声に出して呼んだ、もう一人の名前。
ナディアは作業台の上の布に手を置いた。
九年間、この余白は空だった。名前を入れる場所があることは知っていた。入れられることも知っていた。けれど入れなかった。入れる値打ちが自分にあると思えなかった。
今日、入れた。自分の手で、自分の糸で、自分の名前を。
そしてその名前を、呼んでくれる人の名前を、自分の声で呼んだ。
それだけで、この場所が自分の場所になった。
(完)
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