第1話「丁寧な筆跡」
封を切る指先が、わずかに震えた。
ナディアはその震えを意識した瞬間、指に力を込めた。蝋印の下に爪を差し入れ、薄い羊皮紙の封を剥がす。割れた赤い蝋が机の上に落ちて、乾いた音を立てた。
離縁状だった。
ヴァイスフェルト伯爵家の紋章が押された正式な書面。領主印と、ディートリヒ・ヴァイスフェルトの署名。文面は定型のものだった。婚姻の解消を通告し、即日をもって効力を発する旨が、伯爵家の書記官の筆跡で記されている。
文面の末尾に、宛名があった。
「ナディア・ヴァイスフェルト殿」
その文字だけが、書記官の筆跡ではなかった。
丁寧な字だった。一画一画を慎重に運んだ、崩れのない筆跡。ディートリヒ本人の手で書かれたことが、筆圧の癖で分かる。
ナディアはその名前を、指でなぞった。
九年間。ナディアは一度も名前で呼ばれなかった。「奥」「おまえ」「奥様」。使用人も、夫も、誰一人として「ナディア」とは言わなかった。
書けたのだ、この人は。
知っていたのだ。私の名前を。知っていて、九年間、一度も呼ばなかった。
離縁状の紙面がにじむ前に、ナディアは書面を机に伏せた。
泣かない。泣く理由がない。名前を呼ばれなかったことが悲しいのではない。名前を知っていた人が、知っていながら呼ばなかったことが——いや、それも今さらだ。
椅子から立ち上がる。
やるべきことがある。
自室の棚から、白紙の便箋と羽根ペンを取り出した。
持参金返還請求書。離縁が成立した以上、持参金は返還される。ナディアの持参金として登記されていたのは、叔母ヘルミーネ・レーゲンベルクの織物工房の所有権だった。ブルーメン交易特区にある小さな工房。叔母が生前に営んでいた場所。
ナディアはペンを取り、請求書の書式を迷いなく書き始めた。宛先、日付、根拠条項、請求内容、返還対象の特定、期限。九年間、伯爵領の財務書類を一手に処理してきた手が、書式を正確に組み立てていく。
書き終えた請求書を読み返し、一箇所の誤字もないことを確認してから、封をした。
次に荷造りに取りかかる。
衣装棚を開ける。伯爵夫人としての礼装、社交用の衣服は置いていく。これらは伯爵家の費用で仕立てたものだ。持ち出す権利はない。ナディアが手にしたのは、嫁入り前から持っていた平織りの外套と、実用的な衣服を数着。それと、九年間の家計管理の中で少しずつ蓄えた手元の金銭——五十ターラー。革の小袋に入れて荷物の底に収めた。
部屋を見回す。九年間暮らした部屋だった。壁に掛けた織物は自分が織ったものだが、銘は入れていない。伯爵家の名義で出されたものだ。伯爵家のものだ。
何も、持ち出すものがない。
九年間ここにいて、自分の名前がついたものが、この部屋に一つもない。
荷物は小さな旅行鞄ひとつに収まった。
廊下を歩いて階段を降りる途中、使用人の女がすれ違った。
「奥様、お発ちですか」
「ええ」
「お元気で」
それだけだった。使用人は軽く頭を下げ、すぐに自分の仕事に戻っていった。最後まで、名前は呼ばれなかった。
玄関の広間で執事が待っていた。ナディアは持参金返還請求書の封筒を差し出した。
「こちらを伯爵にお渡しください。持参金返還の請求書です。書式に不備はありませんので、そのまま処理いただければ」
執事は封筒を受け取り、宛名を確認した。
「承知いたしました、奥様」
奥様。最後の最後まで、奥様。
ナディアは「ありがとうございました」とだけ言い、玄関の扉を押し開けた。
振り返らなかった。
馬車は三日かけてブルーメンに着いた。
伯爵領から王直轄の交易特区への道は、途中から石畳に変わる。馬車の揺れが小さくなったことで、ナディアは目を覚ました。
窓の外に、山あいの小さな町が見えた。石造りの建物が斜面に沿って並び、中央の広場に市が立っている。染料や布地を積んだ荷車が行き交い、商人たちの声が重なっていた。
ブルーメン交易特区。叔母ヘルミーネが工房を構えていた町。幼い頃に一度だけ、母に連れられて訪れたことがある。叔母が織機の前に座って、糸の選び方を教えてくれた。あの工房が、今は自分のものになる。
馬車を降り、石畳の坂道を登った。記憶を頼りに路地を曲がると、雑貨店の軒先に腰かけていた女が立ち上がった。
五十代の、日に焼けた顔の女。腕まくりをした袖から太い腕が出ている。
「あんたかい」
声は低く、ぶっきらぼうだった。マルタ・ホルン。叔母の旧友で、ブルーメンの雑貨店主。幼い頃に一度会ったきりだったが、顔に見覚えがあった。
「マルタさん。ご無沙汰しております」
ナディアが頭を下げると、マルタは腰に手を当てて鼻を鳴らした。
「ご無沙汰も何も、あたしはあんたが来るのを待ってたんだよ。ヘルミーネが死んでから三年、ずっと鍵を預かってた」
マルタはエプロンのポケットから鉄の鍵を取り出し、ナディアの手に押しつけた。
「工房の鍵だ。ヘルミーネはね、あんたがいつか来るって言ってたよ。あの子は必ず来るって」
鍵は冷たく、重かった。
ナディアは鍵を握りしめた。指の関節が白くなるほど強く。
「ありがとうございます、マルタさん」
「礼はいいよ。それより、中を見てきな。三年放っておいたから、埃がひどいはずだ」
マルタは坂道の先を顎で示した。
「あんたの工房だ。好きにしな」
あんたの工房。
あんた、という呼び方は名前ではない。でも、「奥様」でもなかった。
ナディアは鍵を握ったまま、坂道を登り始めた。
工房の扉は軋んだ。
鍵を回すと、湿った空気が押し出されてきた。窓は板で塞がれ、中は暗い。手探りで板を外すと、夕方の光が差し込んで、埃が金色に舞い上がった。
織機が二台。壁際に並んでいる。叔母が使っていたものだ。経糸がかかったまま放置されていて、錆が浮いている。糸巻きの棚には蜘蛛の巣が張り、染料の瓶は棚の奥で埃をかぶっていた。
ナディアは鞄を床に置き、工房の中を歩いた。
織機の前に立つ。錆びた筬を指でなぞる。叔母がここに座って、糸を通していた。銘を——叔母は銘を入れていたのだろうか。布の端に、自分の名前を。
棚の隅に、叔母が織った布の端切れがあった。手に取って、端を確認する。
「ヘルミーネ」と、小さな文字が織り込まれていた。
叔母は、自分の名前を織っていた。
ナディアはその端切れを胸の前で畳み、棚に戻した。
窓の外では、ブルーメンの町が夕暮れに染まり始めていた。
明日からここで生きていく。この工房で、この町で。もう誰の「奥様」でもない場所で。
旅行鞄を開け、五十ターラーの入った革袋を確認した。三ヶ月はもつ。その間に、この工房を立て直す。
織機の前に腰かけた。錆びた筬に、明日の仕事を見た。
離縁状の丁寧な筆跡が、まだ指先に残っていた。あの名前の感触が、消えない。
——丁寧な字だった。
その丁寧さが、九年の沈黙よりもずっと深く、胸の奥を刺していた。




