第8話 役としての線
朝倉が「距離を間違えない人」だということは、
もう十分すぎるほど分かっていた。
分かっていたはずなのに――
その“線”を、あらためて突きつけられると、
胸の奥が静かに揺れる。
その日は、外部との合同ミーティングが入っていた。
相手は、海外支社と関わりのあるコンサル会社。
形式張った場で、空気は少しだけ硬い。
会議室に入ると、
自然な流れで、私と朝倉は並んで座った。
誰も何も言わない。
でも、誰もが「そういう配置」だと理解している。
彼は、私の左側。
資料は中央。
肘がぶつからない距離。
――正確すぎる。
私は、ほんの少しだけ姿勢を崩した。
椅子の背にもたれ、足を組み替える。
その瞬間、
朝倉が、ごく自然に体の向きを変えた。
近づかない。
でも、間に誰かが入り込む余地を、作らない。
役として、完璧だった。
会議は滞りなく進み、
最後に名刺交換の時間になる。
立ち上がった瞬間、
私の足元が、ほんの一瞬、ふらついた。
体調は戻っている。
でも、完全ではない。
――しまった。
そう思った瞬間、
視界の端で、朝倉が一歩だけ近づいた。
支えるほどではない。
触れるほどでもない。
ただ、
“倒れない位置”に立つ。
私は、何事もなかった顔で名刺を差し出した。
朝倉は、それ以上何もしない。
――助けたことを、
誰にも見せない。
それもまた、
彼なりの線だった。
会議後、廊下。
「……さっき」
私が口を開くと、
朝倉は歩幅を合わせた。
「はい」
「気づいた?」
「はい」
即答。
「支えなかったわね」
「必要ありませんでした」
必要がなかった。
そう言われると、
少しだけ、悔しい。
「……もし、倒れてたら?」
朝倉は、歩きながら答える。
「その場合は、
役としてではなく、
一人の人間として支えます」
一瞬、足が止まりそうになる。
役としてではない。
一人の人間として。
「それ、違いある?」
「あります」
迷いのない声。
「役は、見せるための関係です。
人としての行動は、
見せる必要がありません」
私は、言葉を失った。
――この人は、
本当に線を引いている。
私を守る線。
自分を守る線。
関係を壊さないための線。
「……厄介ね」
小さく呟くと、
朝倉は首を傾げた。
「何がですか」
「優しさが、全部“正解”なところ」
彼は、少しだけ考え込んだ。
「正解かどうかは、分かりません。
ただ、
間違えないようにしているだけです」
その言葉が、
胸に静かに刺さる。
夕方。
デスクで資料をまとめていると、
チャットが届いた。
【今日は、外部対応お疲れさまでした】
業務連絡。
でも、必要のない一文。
【ありがとう】
そう返すと、
すぐに既読がつく。
【無理は、していませんか】
まただ。
同じ確認。
私は、少しだけ指を止めた。
【していません】
【……心配しすぎ】
送信。
少し間が空いてから、
返事が来る。
【心配するのは、
役の範囲内です】
範囲内。
その言葉に、
胸の奥が、ひどく静まる。
――ここまで。
――それ以上は、踏み込まない。
私は、画面を閉じた。
帰り道、
駅までの道を並んで歩く。
人通りは多く、
自然と距離が近づく。
それでも、
朝倉は触れない。
「……ねえ」
「はい」
「役、っていつまで?」
「三か月です」
即答。
「延長は?」
「想定していません」
それも、即答。
私は、笑ってしまった。
「即答すぎる」
「条件でしたから」
条件。
私は、それ以上聞かなかった。
聞いてしまえば、
“役としての線”の外に、
足を踏み入れてしまいそうだったから。
改札前。
「今日は、ここまでで」
「ええ」
「気をつけて帰ってください」
それだけ。
私は、改札を通りながら、
一度だけ振り返った。
朝倉は、
そこから一歩も動かず、
ただ見送っている。
近づかない。
追いかけない。
でも、
最後まで、離れない視線。
――この人は、
距離を間違えない。
だからこそ、
私の心の方が、
その線を越えたがっている。
それが、
今いちばん、
認めたくない事実だった。
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