第7話 何も起きない夜
その夜、部屋は静かすぎた。
熱は下がりきっていない。
身体は重いのに、頭だけが冴えている。
こういうとき、人は余計なことばかり考える。
私はベッドに横になったまま、
天井の小さな染みを数えていた。
――触れない優しさ。
今日一日、そればかりが頭から離れない。
恋人役なのに、
看病イベントもない。
額に手を当てられることも、
「大丈夫?」と囁かれることもない。
それが、正しい。
分かっている。
分かっているのに、
何も起きなかった夜が、
少しだけ寂しいと感じてしまう自分がいた。
スマホが震えた。
反射的に手を伸ばして、
画面を確認する。
【熱は、どうですか】
朝倉からだった。
それだけ。
句読点も、絵文字もない。
私は少しだけ考えてから返す。
【下がってきました】
【もう大丈夫そう】
送信。
すぐに返事は来なかった。
それでいい。
“常にそばにいる”わけじゃない。
必要なときに、確認するだけ。
合理的で、静かで、
感情を刺激しない距離。
……なのに。
【無理は、しないでください】
数分後に届いた、その一文が、
胸の奥に、静かに沈んだ。
無理は、しないでください。
それは、
恋人の言葉ではない。
上司でも、部下でもない。
ただ、
“私の状態を尊重する人”の言葉だった。
私はスマホを胸の上に置いて、
目を閉じる。
――この人は、
私に何も起こさない。
だからこそ、
心が勝手に動いてしまう。
翌朝。
目覚めると、
熱は完全に下がっていた。
体調は、悪くない。
ただ、昨日よりも、
少しだけ現実が重い。
会社に行くべきか、迷う。
無理はしないでください。
その言葉が、まだ残っている。
結局、私は出社した。
仕事は、逃げない。
逃げないからこそ、
私も逃げない。
オフィスに入ると、
何人かがこちらを見る。
「もう大丈夫なんですか?」
「昨日、早退したって聞いて」
私は、笑って答える。
「大丈夫。ありがとう」
それ以上、踏み込まれない。
それもまた、
“分かりやすい状況”のおかげだった。
席に着くと、
朝倉がこちらを見ていた。
「……おはようございます」
「おはよう」
視線が合う。
すぐに、逸らされる。
「無理は、していませんか」
同じ言葉。
昨日と同じ。
「してない」
私はそう答えてから、
少しだけ間を置いた。
「……ありがとう」
理由を言わなくても、
彼は分かっているようだった。
「はい」
それだけ。
昼休み。
私は社食には行かず、
デスクで軽く済ませた。
すると、
隣の椅子が静かに引かれる。
朝倉だった。
「ここ、いいですか」
「どうぞ」
それだけの会話。
彼は、何も話さない。
私も、何も話さない。
ただ、同じ空間で、
それぞれの食事をしている。
不思議と、気まずくない。
――何も起きない。
でも、
“何も起きないこと”が、
こんなにも落ち着くなんて。
「……昨日」
私が口を開くと、
朝倉は箸を止めた。
「送ってくれて、ありがとう」
「当然です」
当然。
その言葉に、
また少し、胸がざわつく。
「恋人役として?」
「いえ」
即答。
「篠宮さんが、
困っていたからです」
それだけ。
理由は単純。
余計な意味はない。
――そう。
意味なんて、いらない。
私は、少しだけ笑った。
「本当に、
何も起こさない人ね」
朝倉は、首を傾げる。
「何か、起こす必要がありましたか」
私は、一瞬だけ言葉に詰まってから、
首を振った。
「いいえ。
……これでいい」
“これでいい”。
それは、
今まで何度も自分に言い聞かせてきた言葉。
仕事も、生活も、
この距離感も。
全部、これでいい。
なのに。
その日の帰り。
エントランスで、
山城とすれ違った。
「あ、篠宮さん。昨日、大丈夫だった?」
心配しているふりの、
探る目。
「ええ。朝倉が送ってくれたので」
私は、自然にそう言った。
山城が、ちらりと朝倉を見る。
「へえ……そうなんだ」
それ以上、何も言わなかった。
説明は不要。
詮索も、ここで終わる。
朝倉は、
そのやり取りの間、何も言わない。
外に出てから、
彼がぽつりと口を開いた。
「……今の」
「うん?」
「必要でしたか」
私は、歩きながら考える。
「必要だった。
でも――」
言葉を探す。
「それ以上は、
いらなかった」
朝倉は、少しだけ頷いた。
「了解しました」
その返事に、
私はなぜか、胸が痛んだ。
――彼は、
本当に距離を間違えない。
間違えないから、
私の方が、
間違えそうになる。
何も起きない夜。
何も起きない日常。
それが、
こんなにも手放しがたいなんて。
私はまだ、
この感情に名前をつけない。
つけてしまったら、
期限付きの関係が、
壊れてしまう気がしたから。
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