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期限付きの恋人役をお願いしただけなのに、年下の彼は距離を間違えない  作者: 無明灯


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第6話 触れない優しさ

朝倉の距離感に慣れたつもりでいた。

正確で、一定で、決して踏み込まない。


――慣れた、はずだった。


けれどその日は、朝から少しだけ調子が悪かった。


原因は分かっている。

寝不足。

それから、考えすぎ。


昨夜、ベッドに入ってから何度も思い返してしまったのだ。

エレベーターでの立ち位置。

人が多いとき、私を壁側に追いやらなかったこと。

触れないまま、確実に守っていたこと。


優しさに名前をつけなければ、

これはただの配慮だ。


そう分かっているのに、

身体の奥が、少しだけ追いついてこない。


午前中の作業は順調だった。

集中していれば、余計なことは考えなくて済む。


けれど昼前、

画面の文字が、急に滲んだ。


――あ、これ。


嫌な予感がして、椅子に深く座り直す。

頭の奥が、重い。

視界が、少しだけ遠い。


「……大丈夫」


誰に言うでもなく呟いた、その直後。


「篠宮さん」


声が、すぐ近くで聞こえた。


顔を上げると、

朝倉が立っていた。


「顔色が、良くないです」


即断。

曖昧な言い方をしない。


「平気。ちょっと目が疲れただけ」


そう言って笑おうとしたが、

うまくいかなかった。


朝倉は、私の言葉をそのまま受け取らない。


「熱、測りましたか」


「……そこまでじゃ」


「今、測った方がいいと思います」


そう言って、

彼は私のデスクから一歩引いた。


近づかない。

触れない。


でも、逃げない。


「給湯室、空いてます。

 体温計、あります」


準備が良すぎる。


「……用意周到ね」


「体調不良は、業務効率を下げます」


理由はあくまで仕事。

感情を含ませない。


私はそれに、少しだけ救われた。


給湯室。


私は椅子に座り、

体温計を脇に挟む。


朝倉は、二メートルほど離れた位置で、

壁にもたれていた。


視線は、私ではなく、窓の外。


「見ないの?」


「……見る必要がある状態ではありません」


そう言い切る。


変に気を遣われるより、

ずっと楽だった。


ピピ、と音が鳴る。


「三十七度、二分」


「微熱ですね」


即答。


「帰った方がいい?」


「はい」


迷いがない。


「でも、午後の打ち合わせが」


「延期できます。

 篠宮さんが無理をする理由はありません」


――無理をする理由はありません。


誰かに、そう言われたのは久しぶりだった。


私は、思わず笑ってしまう。


「朝倉って、本当に冷静ね」


「必要な判断をしているだけです」


彼はそう言って、

少しだけ間を置いた。


「……送ります」


一瞬、心臓が跳ねた。


「え?」


「タクシー、呼びます。

 歩く距離ではありません」


送る。

その言葉が、思った以上に重く響く。


「触らないでしょ?」


冗談めかして言うと、

朝倉は真面目に頷いた。


「はい。

 必要がなければ」


必要がなければ。


それが、

この人の優しさの定義なのだ。


タクシーの中。


私が後部座席の奥に座り、

朝倉は、わずかに距離を取って隣に座る。


揺れで、肩が触れそうになるたび、

彼はほんの数センチ、位置を調整した。


「……そんなに気を遣わなくていいのに」


私が言うと、

彼は視線を前に向けたまま答えた。


「今は、

 触れない方が安全です」


安全。

体調の話をしているはずなのに、

どこか別の意味にも聞こえる。


「それに」


少しだけ、声が低くなる。


「役としても、

 無理なスキンシップは不要です」


“役として”。


私は、静かに頷いた。


期待しない。

勘違いしない。


そのための言葉。


なのに。


「……ありがとう」


それだけ言うと、

朝倉は、小さく頷いた。


マンションの前。


タクシーを降りると、

夕方の風が、少し冷たい。


「今日は、ここまでで」


「はい」


「明日は……」


「様子を見てください」


彼は、即答しない。

判断を、私に委ねる。


「無理なら、

 “役”は気にしなくていいです」


その言葉に、胸が詰まった。


役。

期限付き。

条件付き。


それなのに、

一番私の負担を考えている。


「……朝倉」


「はい」


「触れないのに、

 こんなに優しいの、反則よ」


冗談のつもりだった。

でも、声が少しだけ震えた。


朝倉は、少しだけ考えてから答えた。


「そうですか」


それだけ。


否定もしない。

肯定もしない。


でも、その距離のまま、

最後まで動かなかった。


私はドアを開け、

一度だけ振り返る。


「また、連絡する」


「はい」


それだけで、十分だった。


部屋に入ると、

静けさが戻ってくる。


私はソファに座り、

天井を見上げた。


触れない。

踏み込まない。

でも、離れない。


この人の優しさは、

とても静かで、

とても危険だ。


――慣れてしまったら、

私はきっと、

この距離を失うのが一番怖くなる。


そう確信してしまったことが、

一番の問題だった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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