第5話 距離が正確すぎる男
朝、オフィスに入った瞬間から、空気が少しだけ違った。
挨拶の声が増えた。
目が合う回数も、ほんのわずかに。
それは好意というより、確認だ。
――篠宮は、もう「一人」じゃない。
そんな無言の共有。
私はそれを、良いとも悪いとも思わなかった。
ただ、説明しなくて済むことが、ありがたかった。
「おはようございます」
席に着くと、隣から声がした。
朝倉だった。
「おはよう」
それだけ。
昨日までと何も変わらない。
声の調子も、距離も。
――これでいい。
そう思ったはずなのに、胸の奥が少しだけざわつく。
午前中のミーティング。
私と朝倉は、自然に並んで座った。
資料を共有し、意見をすり合わせる。
指が重ならない距離。
肩が触れない角度。
彼は、近づかない。
でも、遠くもない。
説明が必要なときだけ、
私の資料を指さす。
「ここ、確認を」
短い言葉。
視線は資料。
私の顔は見ない。
なのに、不思議と置いていかれない。
――距離が、正確すぎる。
近すぎれば、誤解される。
遠すぎれば、役に立たない。
その“ちょうど”を、
彼は一度も間違えなかった。
ミーティング後、給湯室。
コーヒーを淹れていると、
同じ部署の女性が声をかけてきた。
「最近、朝倉くんと一緒ですね」
探るでもなく、責めるでもない。
ただの、確認。
「仕事で組んでるから」
私はそう答えた。
彼女は一瞬だけ、
私の背後に視線をやってから、笑った。
「そっか。……お似合い、って言うと変かな」
変だと思う。
でも、否定するほどの理由もない。
「ありがとう」
私は、それだけ言った。
そのやり取りを、
少し離れたところで朝倉が聞いていたことに、
私は気づかなかった。
午後。
チャットに、朝倉からのメッセージが入る。
【今の会話、
否定した方が良かったですか】
画面を見つめて、思わず笑ってしまった。
【いいえ】
【あれでちょうどいい】
少し間があって、返事。
【了解しました】
了解。
それだけ。
甘い言葉はない。
冗談もない。
でも、
「どう振る舞うべきか」を確認する姿勢が、
妙に安心できた。
帰り際、エレベーター。
人が多く、少しだけ距離が近くなる。
でも、彼は一歩分、必ず間を取る。
誰かが乗ってきても、
私を壁際に追いやらない。
自然に、
“守る”位置に立つ。
触れない。
近づかない。
それでも、
一番安全な場所に、私を置く。
――この人は、
距離を詰めることで好意を示すタイプじゃない。
距離を守ることで、
関係を壊さない人だ。
そう気づいた瞬間、
胸の奥が少しだけ、苦しくなった。
エレベーターを降りて、
ビルの外に出る。
「今日は、ここまででいいですか」
朝倉が言う。
「ええ。ありがとう」
「何かあれば、連絡ください」
それは、
恋人の言葉ではない。
部下の言葉でもない。
“役”として、
最も正しい距離の言葉。
私は、頷いた。
「……朝倉」
「はい」
「距離、取りすぎじゃない?」
冗談のつもりだった。
軽く笑って、流すつもりだった。
でも、彼は真剣に考え込んだ。
「必要でしたか」
その返しに、
私は一瞬、言葉を失う。
「……いいえ。今ので、正解」
「なら、このままで」
迷いのない答え。
私は、空を見上げた。
夕方の風が、少し冷たい。
恋人役なのに、
触れられない。
近くにいるのに、
踏み込まれない。
それなのに――
「安心するなんて、ずるいわね」
小さく呟くと、
朝倉は聞き返さなかった。
聞こえなかったのか、
聞こえないふりをしたのか。
どちらでもいい。
私は知ってしまった。
この人の“正確な距離”が、
いつか私にとって、
一番離れがたいものになることを。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




