第3話 期限付きという条件
送ってしまったメッセージは、取り消せない。
スマホを伏せたまま、私はソファの背に体を預けた。
天井の白が、やけに遠い。
――期間限定で、恋人役。
文字にすればたったそれだけなのに、
頭の中では何通りもの意味に分岐して、収拾がつかなくなる。
軽率だっただろうか。
一線を越えすぎただろうか。
それとも――
ようやく、合理的な手段を選んだだけだろうか。
数分。
体感ではもっと長い時間が過ぎたあと、スマホが震えた。
私はすぐに取れず、
一拍置いてから画面を見る。
【確認させてください】
朝倉らしい返事だった。
感情より先に、条件確認。
【どういう目的ですか】
その一文を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
否定でも、驚きでもない。
まず「理解しよう」としている。
私はゆっくりと打つ。
【社内の噂対策です】
【仕事に支障が出ないようにしたい】
【本当の関係になるつもりはありません】
送信してから、
自分で自分に言い聞かせていることに気づく。
本当の関係。
その言葉が、胸に小さく引っかかった。
すぐに返事が来る。
【期間は】
短い。
でも、重要な質問。
【三か月】
【それ以上は求めません】
しばらく、既読がついたまま動かない。
断られても、おかしくない。
年下の部下に、こんな話を持ちかけている時点で、
常識からは外れている。
それなのに。
【条件を整理したいので、
明日、少し時間をもらえますか】
画面を見つめたまま、
私は小さく息を吐いた。
――即答で断らない。
――逃げない。
それだけで、もう十分だった。
【分かった。昼休みでいい?】
【はい】
たったそれだけのやり取り。
なのに、胸の奥がざわつく。
私はスマホを置き、
キッチンに立って水を一杯飲んだ。
冷たい水が、喉を通る。
これは恋じゃない。
恋にするつもりもない。
私はただ、
自分の居場所を守りたいだけ。
そう、何度も心の中で繰り返した。
翌日。
昼休みの会議室は、思ったより静かだった。
ブラインド越しの光が、机の上に細い影を落としている。
先に来ていた朝倉は、
椅子に座ったまま、資料もなく待っていた。
「時間、ありがとう」
私が言うと、彼は立ち上がり、軽く会釈をする。
「こちらこそ」
一瞬、沈黙。
仕事の打ち合わせなら、
この沈黙は生まれない。
「……まず、前提を確認します」
朝倉が口を開いた。
「これは、演技ですね」
「そう」
「周囲への説明のため」
「ええ」
「感情的な関係は含まれない」
一つひとつ、確認するように言う。
まるで契約条項だ。
「はい」
彼は少しだけ考え込み、続けた。
「その場合、
“恋人役”として求められる行動範囲を決める必要があります」
行動範囲。
その言葉に、思わず苦笑する。
「例えば?」
「社内での同席、食事、連絡頻度。
どこまでが必要ですか」
合理的。
あまりに合理的で、
感情が入り込む隙がない。
だからこそ、
私はこの人に話しているのだと、改めて思う。
「社内では、一緒にいることが多い、くらいでいい。
外での食事も、必要なときだけ」
「連絡は」
「業務連絡に支障が出ない程度。
……毎日じゃなくていい」
朝倉は、頷きながら聞いている。
「期限は三か月」
「はい」
「延長は、なし」
「……原則は」
私が少しだけ言い淀むと、
彼はその間を見逃さなかった。
「例外を作ると、条件が曖昧になります」
静かな指摘。
正論。
「だから、なしで」
私はそう言い切った。
朝倉は、一度だけ視線を落とし、
それから顔を上げた。
「分かりました」
あっさりした返事。
「引き受けてくれるの?」
そう聞いた瞬間、
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
彼は、少しだけ間を置いて答えた。
「はい」
理由を聞きたくなかった。
でも、聞かずにはいられなかった。
「……どうして?」
朝倉は、すぐには答えなかった。
言葉を選んでいる、というより、
そのまま出していいか迷っているようだった。
「合理的だからです」
「合理的?」
「篠宮さんの立場と、今の社内状況を考えると、
その方法が一番、損失が少ない」
――仕事の話みたい。
そう思って、少し安心する。
「それと」
彼は、少しだけ声を低くした。
「困っている人を、
見過ごす理由がありません」
その言葉は、
感情を含んでいないようで、
でも、完全に無関心でもなかった。
「……ありがとう」
私は、深く頭を下げた。
「こちらからも、条件があります」
朝倉が言う。
「なに?」
「この関係が、
篠宮さんにとって負担になった場合、
理由を問わず、すぐに終了すること」
思わず、目を見開いた。
「……それ、私に有利すぎない?」
「そうです」
彼は即答した。
「だから、成立します」
私は、思わず笑ってしまった。
「本当に、不器用ね」
「そう言われることは多いです」
否定しないのが、また不器用だ。
会議室を出たあと、
私たちは並んで廊下を歩いた。
周囲から見れば、
ただの仕事仲間にしか見えないだろう。
でも、私の中では、
確実に何かが動き出していた。
期限付き。
感情禁止。
演技。
そうやって枠を作らなければ、
私は誰かのそばに立つ勇気すら持てない。
それでも。
「……朝倉」
「はい」
「よろしくね。三か月だけ」
彼は、少しだけ考えてから答えた。
「こちらこそ。
三か月間、全力で役を演じます」
全力で、役を演じる。
その言葉が、
なぜか少しだけ――
胸に残った。
私はまだ知らない。
この“期限付き”という条件が、
私にとって一番、
手放したくないものになるなんて。
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