千代に八千代に
雨の降る社の中。
水滴が跳ねる音が響く中。
千代の呼吸が聞こえた。
「あなた」
「どうした」
千代はもう目を開けない。
開くこともできない。
「外の天気はどうですか」
「晴れているよ。晴天だ」
「雨は降っていますか」
「いいや。降っていない。晴天だと言っているだろう」
千代が笑う。
水面に揺れる風景のように不定形に。
「雨は降っていないのですね。信じられません」
「何故、信じられんのだ」
「雨から生まれたからです。そんな私がもう雨さえも感じられないなんて」
雨音が強くなった気がした。
主へ自分達の存在を伝えるように。
「あなた」
「どうした。千代」
「本当に雨は降っていないのですか」
「嘘をついてどうするというのだ」
「そうですね」
くすりと笑う千代の笑い声がかき消される。
細雨であったはずなのに、僅か数秒の内に嵐のようだ。
雷さえも鳴りそうだ。
だが、雷は鳴りはしない。
空にはもう神はいないから。
自分達の主である雷様はもう居ないから。
「雨はもう私のものではないのですね」
白々しく雨が弱まる。
「当たり前だ。お前はもう人間なのだ。雨を統べるどころか感じることもできやしない」
どす黒い雨が強まる。
まるで嘘を咎めているように。
雷様を娶った矮小な俺の嘘を。
「あなた」
「どうした」
「私は人間になれたのですか」
雨。
しつこい。
馬鹿どもか。
まだ分からんのか。
お前達の主はもう人間だ。
「雨の神なのに雨を感じることが出来ない。誰がどう見てもお前は人間だ。お前はもう」
神様じゃない。
千代の笑い声が響いた。
「ならば生まれ変わりがありますね」
「あぁ。人間の命は有限だ。神とは違う」
「こうして死んでゆくのに。またあなたに会えますね」
「もちろんだ。千代。だから……」
俺の最後の言葉は雷に掻き消された。
「千代」
読んだが返事はなかった。
死んだのだ。
外は豪雨。
今更になり雷が鳴る。
今まで鳴っていなかったのが嘘みたいに。
「千代」
雷が鳴った。
千代のものだろうか。
そう思ったが、すぐに考えを打ち消した。
千代のものであるはずはない。
俺の妻は人間として逝ったのだ。
故に。
「生まれ変わり、またいずれ再会しよう」
この言葉が虚しくない。
落ちる涙が惨めとならない。
雷が鳴った。
千代に八千代に続く世界の理。
今、ようやく世界に戻った音を聞きながら、俺は妻の死を独り抱きしめるばかりだった。




