板付 2
開けた先は室内よりも些か明るかった。昨晩は周囲を見渡す余裕がなかったが、部屋の外にはホテルを思わせる形で別室への扉が並んでいた。十分な横幅のある廊下には、一定間隔ごとに花瓶や本などの小物が置かれており、床にはカーペットが敷かれている。
そんな空間に、自分以外の人影があった。
ちょうど部屋の前を通りがかっていた彼が、俺の存在に気づいて足を止める。カーペットに吸収された足音はドアの内側まで届かなかった。思いがけない遭遇。全くの偶然。こちらを捉えた青い瞳孔が、驚きに開かれる。
「おはよ、う」
口をついたのはそんな四文字だった。
言ってしまってから後悔がよぎる。閉鎖空間にも似たこんな状況で、日頃隣人と交わすような挨拶をするのは楽観的すぎやしないか。かと言って、言い逃れできないほどの距離で行き合った彼を無視するわけにもいかなかった。正常に頭が回っていたにせよ、俺は声をかけていただろう。
黒髪の彼は俺の言葉を受け取って、苦々しく眉を顰めた。やってしまったな、と思う。不謹慎と言うべきか、俺の取った行動は相応しくないものだったのだ。では正解はなんだったのか。命の危険が間近に迫るなんてこと、初めてで答えが見つからない。
気まずいというには重たすぎる沈黙が流れる。俺には空白の時間を埋める手立てがない。ドアノブに添えたままの手を握り込んだ。謝っておくべきなのだろうか。意思に反して、己の視線はいつの間にか足下まで落ちていた。真紅の絨毯が敷かれた廊下に、黒い革靴が留まっている。
「……おはよう」
顔を上げれば、彼はすでに歩みを再開していた。通り過ぎていく横顔を目で追う。広間の方へと向かって行く彼の背を眺める。金属に触れたままの掌が熱を持っていた。
小さく、聞き取れないくらいの躊躇いを含んで返ってきた声を反芻して、部屋の外へと足を踏み出す。
飴色のテーブルと椅子のある広間は、昨日と概ね変わらない様相をしていた。違うのは、ここに集っている全員が椅子に座っているわけではないことだ。飾られた絵画の前で佇んでいる者もいれば、粗雑に腰掛けて腕を組んでいる者もいる。一瞥した限りではまだ揃っていない者もいるようだ。
廊下に繋がる扉の前で立ち尽くしていれば、すぐ隣の壁にもたれている男が居ることに気づく。目が合うと軽い会釈が返ってきた。センターパートに茶髪の彼が自己紹介をしていた時の声を思い返す。
「レオ、ちょっといいかな」
「え? あぁうん、どうしたの?」
こちらの呼びかけに、レオはつり目がちな瞳を瞬かせてみせた。唐突な語りかけをあしらうでもなく寄りかかっていた姿勢を正すと、足先と身体をこちらに向けてくれる。
「昨日さ。あの女の子って、その後どうだったか分かる?」
言葉を選びながら尋ね、テーブルへと目線を向ける。入室してからずっと引っかかっていたことだった。円卓に並べられた椅子のうち一つ。そこには誰も座っていない。
あの子の名前はケイトだったはずだ。
ひとつに纏めた三つ編みをふわふわと揺らし、そう名乗っていた。胸の前で両手を握り、不安げに視線を彷徨わせながら、それでも周りと目を合わせるように話者へと顔を向けていた、彼女の姿が思い出された。
昨晩ケイトはそこに座っていた。
あの後。動揺に恐怖が掛け合わさった広間で、床に崩れた彼女のことを気にかける余裕がある者がいたようには思えなかった。俺だってその一人だ。
けれど、一晩を明かした今ケイトはこの場にいない。であれば、夜のうちに誰かが移動させたのではないかと推測したのだが。
「ごめん、俺は最後まで残ってなかったから分かんないな」
「そっか。ありがとう」
レオが痛々しげに首を振った。彼に返事をして、もう一度、ケイトが腰掛けていた位置を見つめる。
数時間前まで確かに生きていた彼女のことを、俺は名前しか知らない。ケイトの人生は十六年分、しっかりと続いていたはずなのに。
気づかないうちに呼吸を止めていたらしい。乾いていた唇を開け、そっと息を吸う。
瞬きの合間、皆と同じように席に着いていた彼女の後ろ姿が見えた気がした。ちらついた光景に喉が詰まって、ひとまず椅子を見つめるのはやめることにした。




