碧空 5
「寝たっていうよりも、部屋に入ってからのことをあんまり覚えてないな。起きて、気がついたらベッドの上にいた」
ノアは眠れなかったの。返そうとして見やった彼の顔色に、喉がつかえる。シャツの下で肌が粟立ったのが分かった。遅れて脳裏に浮かんだ光景を理解する。
頭に過ったのは、便箋に綴られた文面と、ポーラが抱えていた本の題。アシュクの部屋に踏み入ったあの瞬間、鼻腔を掠めた血の匂いが一気に記憶の入り口を叩く。
この舞台において、夜更けは人狼の時間だ。村人は、等しく狼に襲撃される可能性をもって夜を明かす。集められた役者たちは揃って舞台の上に立たされている。それは昨晩、眠りに落ちていた時間も同様に。
俺は今朝、夢から醒めないかもしれなかった。
実感を伴っていなかった現実が足先から感覚を奪っていく。首筋から後頭部にかけて圧迫するような耳鳴りがしたかと思えば、ふいに腹の奥が痛んで、血の気が引いた。
もたれていた高欄を咄嗟に掴む。灰色に狭まりつつある視界を認識しながら、膝に体重をかける。目を瞑ったら最後、立っていられなくなる気がした。
「シャル」
肩越しにノアが呼びかけてくる。その名前に続く言葉を聞いたら、今朝方引き締めた意思が揺らいでしまう。直感で思った。
「ノアはどう考えてるの。占い師、ニナとレオの主張」
不必要に張った声が首筋を痺れさせる。絞り出した音は予想外に反響した。
結局。屋敷に集められた者にできるのは遊戯についての話し合いのみだ。
飲み込んだ液体のように、無力感が胸元を抜けて腹の奥に落ちていく。
「ニナに占われてたよね。二人の話をそれぞれどう思った?」
元々、考えていたことがあった。ポーラに声をかけられる前に思い浮かんだ、一つの目的だ。
レオがアシュクを占ったと主張するなら、今後に影響を与えてくるのはニナの結果だろう。真実を知る彼女以外、誰の目にもまだ不明である、一人の人物についての言及。
村人だと指摘されている生存者はノアただ一人なのだ。
仮に、白出しをされたノアが人狼らしい振る舞いをしなかったなら。ニナが占い師であるという主張に真実味を帯びさせる根拠となるのではないか。
それならば。狼を探し出し、生存率を上げるために俺がするべきことは明白だ。
彼を詮索する。
ノアが目を伏せる。空色が瞼に隠されたかと思えば、少しの時間を置いて再び開かれる。同じ光を取り込んでいるはずの色彩は、つい数秒前までよりもわずかに冷えている気がした。
「彼女は俺を村人だと言った。人狼に白だと告げているわけではないから、今日の結果については嘘を言っていないことになる。あくまで俺の視点では、って話だけど」
ノアが口元に手を添える。今朝方の議論を思い返しながら、文章を組み立てているのだろう。
「けど。シャルがさっき説明していた通り、ニナがランダムに結果を偽った可能性もある。今の時点で、彼女が本物の占い師だと断言する情報はない」
初日に白を挙げる利点は先ほど皆の前で提示した。情報の出揃っていない今日は、たとえ誰を占ったとしても矛盾が起きない。狂人が白を出すのならば、相手が真に村人であれ狼であれ、自身の印象を植え付けることができる。
「レオについても同じだと思ってる。役職が判明していない人間のうち、アシュクが占われた上で、彼が襲撃される確率はどれほどのものかは分からない。決してゼロではないから、彼が虚偽を言っているとも言い切れない」
ノアの指端が手摺の曲線をなぞる。
「ニナはレオの占い方を、村側に情報をもたらさないためと言っていたけど。狂人が口を噤んだところで本物の占い師が結果を公表するのだから、撹乱した方がいい、と正直思う」
ニナとレオ、占い師を名乗った二人にそれぞれ決定的な齟齬はない。両者をフラットに考えることはできる。しかしあくまで占い結果から逆算して考えるのであれば、レオの方が信頼に値する。というより、アシュクを指差したレオは、狂人であれば利のない行為をしているのだ。
ノアの思考に違和感はなかった。自分が占われたからといって偏ることもしていない、 冷静な判断。
青い目がふいに細められる。それよりも。人差し指を軽く叩いて、彼が切り出す。
「ニナの、取り乱し方が気になった」
「どんな?」
ノアが視線をずらすのに合わせて、黒い髪の束が睫毛を擦った。浮かんだ単語をまとめているのか、はたまた彼女の振る舞いを思い返しているのか。床に敷かれたカーペットを見つめながら、呟く。
「あれだけ狼狽して、状況を飲み込めない様子でいたのに。レオの占い結果を推察する話し方をしていた」
ノアの言葉を聞いて、先刻のテーブルを回想する。取り乱したニナを睨むレオの目線と、彼に一瞥もくれようとしない彼女の横顔。そうしてニナは、レオが狂人であるとする論拠を叫んでいた。
ノアが引っかかっていることも理解できた。
自身の役職を示したあの場で、二人目の占い師が挙手をした。片方は嘘をついていると糾弾され、想定外に降りかかった懐疑に対し、冷静を保てる者がいるのなら、それは誰か。
それは、占い師が複数名乗りを上げることを知っていた方の人間でしかありえない。
俺と、同じ考えだった。
「……でも。その冷静さは、彼女が元々持っている賢さからくるものかもしれない。俺もシャルも、ニナの人柄を知ってはいないし」
文章を区切る。続けて、強張ったままの表情で瞼を閉じた。細く溜息を吐いてから、ノアは言葉を重ねる。
「こんな場所で。動揺するのなんて、当たり前だ」
低められた声が空気を揺らした。
占い師と狂人。勝手極まりない役割を担わされているのは、このふざけた舞台のせいでしかない。
人狼を見つけろと放り込まれた閉鎖空間で、生きていた命が消えるのを目の当たりにした。次が自分ではない保証などどこにも見つけることはできない。
誰もが、思っているはずなのだ。
「ノア」
たったそれだけの音を聞いて、ノアはこちらを見やった。変わらず差し込む陽光が、ノアの瞳に明かりをつけ、反射した俺の輪郭を照らし出す。
自分の胸元に手を当てる。滑らかなネクタイの生地が爪に引っかかった。トルソーの意思とは無関係に着せられた、不気味な正装だ。腕を動かす。シャツ越しに、きちんと動いている自らの心臓に指をかざす。
俺が今から口にしようとしているのは、なんら意味をなさない台詞だ。どんな答えが返ってきたとしても確たる証拠にはならないし、彼が胸の内でどう思っているのかなんて知りようもない。
あとどれだけ残されているのか分からない時間を使って、ひどく無価値なことを聞く。
「ノアは村人?」
天窓を隔てた先の太陽に雲がかかったのだろうか。吹き抜けに届く日の光が、一瞬だけ陰った。




