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碧空 3

 こぼれた吐息に声が乗る。決して強いわけではないのに、彼の言葉は容易く身体の中へと浸透していった。怒っている素振りはない。こちらを見つめてくる彼の瞳から視線を逸らしたいとは思わなかった。


「アリエス」


 肺の近く、腹の辺りが不器用に震える。生まれてから幾度となく口にしたことがある単語なのに、発音には妙な辿々しさが生まれてしまう。

 それでも、真向かいの男は静かに耳を傾けてくれた。


「シャル・アリエス……俺の名前」

「うん」


 彼が満足したのかは定かではなかった。最前ニナに返していたような、人当たりの良い表情を作ることもない。

 うまく読み取ることのできない面持ちを眺めていれば、改めて自身の立っている場所へ意識が向いた。そうして俺が今、彼の虹彩を覗き込める近さにいることを認識する。


 天窓の設置されたこの空間は静かだった。何かの音が聞こえているわけではないのに、広間にこびりついていた無音が記憶から引き摺り出されることもない。窓のないあの部屋とは違って、切迫感に押し潰されはしなかった。


 姿勢を正すのに合わせて半歩ほど踵を引く。

 どうしてか、心臓の内側が燻る感覚がした。当然そんな事態に陥ったことはないので、正確な表現かなんて知り得ないけれど。

 指先を握り込む。力の入った拳を、もう片側の手のひらで包んでみる。


「ていうか、俺だって聞いてない」

「え? あぁ」


 またもや単語をくっつけただけの不親切な台詞が飛び出した。先ほどから、頭に浮かんだ言葉がまともな文章にならないのは何故だろう。

 俺の不満を聞いて、彼は一瞬考える素振りをした。斜め上方へ視線を放る。続けて腑に落ちた、といった顔で顎先に指を当てた。薄い唇が初めの音を形作る。


「ノア。の、ラストネーム」


 彼の返答を遮って名前が口をついた。

 あの自己紹介の時、俺は真正面の彼を見据えてはいなかった。別に意味があったわけではない。ただなんとなく。テーブルの中央、彼の着ているベストが視界の端で霞む辺りに目線を落としていた。

 順を追って告げられる言葉、恐怖の滲んだ挨拶。ざわめきの合間に、その名前は初めて聞こえた。水面をなぞるような、静寂にも似た声の揺れ。


 おそらくは特別内心を顔に出すことをしない、彼の両眼がかすかに見開かれる。

 覚えようとしていた。そう俺に言っておきながら、この男は名前ひとつに会釈を付けて終わらせたのだ。自分の方がよほど端的で淡白な自己紹介だった。

 反論してやりたい気持ちが膨らむが、やっぱりやめておく。向かいに立つノアが口角を上げた気がしたからだ。


「ノア・セレスティ」


 耳慣れない響きを反芻する。セレスティ。口内で転がった音が鼓膜を揺らす。じわじわと、体内が熱を上げた。戸惑いを覚えて唇を噛む。


 知らないまま死ぬかもしれなかった彼の名前を、知ることができた。

 それだけのことが、どうしてこんなに心拍を速めるのか。

 駆け足を止めた直後のような、軽い息苦しさと高揚感が身体の中を巡っている。抱え込んだ動揺がばれないように深呼吸をする。


「シャル、何歳だって言ってたっけ」

「俺? 18だよ。ノアは?」


 彼が話の続きを始めたことに少しだけ驚きながら、肺いっぱいに吸ったばかりの酸素で答える。

 ノアに限らず、昨晩のやり取りにおいて年齢を告げなかった者はちらほらと居た。流石に俺も全員の歳までは覚えきれていないが、集められた人間は大体が16歳から18歳なのだろうと察していた。

 気になっていた数多のうち一つ、彼の歳がいくつなのか。興味を引っ提げた簡単な疑問に対して、すぐには反応が返ってこなかった。どうしたのだろう。


 俺は今、ノアから視線を外していた。青い瞳孔を見つめているとおかしな感覚の生まれる呼吸を治めたかったのだ。

 けれども、再開されない台詞がどうしても気に掛かる。遠回りをしながら右隣に目をやれば、彼は変わらず隣に立っていた。

 ついさっきまでとは違う表情をして。


「一つ下。ごめ……すみません、歳のことあんまり考えてなかった」


 声に困惑が滲む。言い直された謝罪に混ざった強張りが、ちくりと棘のように響く。


「やだ」


 自身の気持ちを理解するよりも前に喉が震えた。飾り気のない欲を乗せた声は、ひどく子供じみた響きをしていて恥ずかしくなる。


「歳とか気にしなくていいよ。普通に喋ってほしい」


 こんな状況だ。きっと俺は不安定になっている。そう思いながらも、客観視した分の自身を抑えるつもりにはなれなかった。

 逸らしていた彼の瞳に焦点を当てる。


「こんなところで。目の前の相手と話してる、それ以外のこと、考えたくない」


 ぐらぐらと落ち着かない感情を留めるべく手摺を掴む。こんな些細なやり取りで心細さを覚える必要なんてないはずなのに、心臓は言うことを聞かなかった。

 俺の投げかけを受け取って、空色が瞼に隠される。次に目が合った時にノアが湛えていたのは、呆れと穏やかさを含んだような微笑だった。


「わかった」

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