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碧空 2

 説明も脈絡もない不親切な問いかけに対して、彼が不快を表すことはなかった。瞬きを二回、おそらくは咀嚼の時間を置いて、ふいに顔を斜め上へと向ける。


「空を見てた」

「そら?」


 思いがけない返答に一拍思考が止まった。空。二つの音を舌の上で転がす。同時に、黒髪の彼が目線だけをこちらにずらした。呼ばれている。なんとなくそう理解して、身体の芯を引かれるように足を動かす。

 隣へ着くと、彼は一歩右にずれる動作をした。譲るように空いたスペースへ身体を収める。

 その場所に立てば、意識するまでもなく目線が上を向いた。何故か。頭上から差す光が、シャンデリアよりもはるかに柔らかくきらめいていたからだ。


「——本当だ」


 視線の先を理解して心臓が高鳴る。閉じたガラスを突き抜け、屈折しながら、朝の訪れを知らせる明るさが届く。

 そこには天窓があった。真紅を帯びたホールを照らす照明でも、暗く閉じこもった室内につけられた灯りでもない、天然の眩しさだ。アーチ状の枠で切り取られた空は、キャンバスに描かれた絵画のように映る。

 息を呑む。混じり気のない空気が鼻に抜けた。


「……部屋も。あの広間にも、どこにも見つからなかったから」


 ようやく目に触れた外の色から視線を外すことができないまま、余った思考を呟く。


「外の景色見たかった、ずっと。ここにあったんだ」


 右の腕を持ち上げる。思いつきのまま掌を眼前にかざしてみた。顔の方に影を落とした指の縁が赤く細く透ける。

 手に重ねて掴んだ光を、ままごとのように握りしめて呼吸をする。取り込んだ酸素を吐ききって肩の力が抜けていく。ほんの少しだけ、体温が上がる感覚がした。

 そうして満足のいくまで空を眺めているうちに、右の男が一言も発していないことに気づく。唐突に声をかけたばかりか、まともな文章にすらなっていない心情をそのまま口に出してしまった。ふと我に帰り、急いで姿勢を変える。


「ごめん挨拶もせずに。俺は」

「シャル」


 鼓膜をくすぐられる。右頬の横、すぐ隣で発された音に背が震えた。同じ響きを俺は知っている。今朝方、目を覚ましてから最初に聞いたあの声だ。

 天窓を見上げている間、俺は思いの外彼に近寄ってしまっていたらしい。反射的に右側を向けば、自分より少しだけ上の位置にある瞳と目が合った。半歩ほどしかない距離に驚く。身体を動かせばぶつかってしまう位置に彼は居た。

 今までも視界に入っていた黒髪は、太陽の色を透かして不思議と青みがかって見えた。ちかちか、降る光を取り込んだ碧が色を変える。


「名前、なんで」

「なんでって。自己紹介、寝てたわけじゃないから」


 怪訝そうに眉を寄せて男が続けた。もちろん彼が眠ってなどいなかったことは知っている。テーブルを囲んだあの瞬間、真正面に座っていた彼の姿は頭に残っている。けれど、自分の名前を口にする時、俺は確かに彼の方を見てはいなかった。


「シャルは言わなかったよね」

「え?」

「ラストネーム」


 想定外の言葉を投げかけられ、今しがたの出来事に既視感を覚えた。ラストネーム。淡々とした彼の発音を頭の中で反芻してから、あぁ、と首を縦に振る。


「全員分の名前なんて、みんな覚えきれないだろうなと思って」


 自己紹介の時間を思い返しながら、手摺(てすり)に肘を乗せて体重をかける。だらりと降ろした指の先が艶やかな木目に触れた。上層の空気に触れていたせいか、表面は冷え渡っていた。

 皆が皆初対面であったあの場はただでさえ特殊な状況だった。十人余りの顔と名前を一致させるのは容易ではなかっただろう。相手に苦労を強いる必要はないし、不便があれば自分から名乗ればいい。そう思っていたから、自身の挨拶なんてものは簡単に終えたのだ。

 誰かが聞いてくれたとしても、俺の名前はきっと忘れられてしまう。


「覚えようとしてた」

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