碧空 1
少し寝てくるね。折れてしまいそうな声量でそう告げた彼女に、部屋の前まで送ろうかと尋ねる。
一切れ分のサンドイッチを胃に収め、手の中で揺れていたミルクティーを飲み干したポーラは、俺の申し出に「平気だよ」と返した。控えめな否定を述べた彼女は、恐怖を吐露した数分前と同じ顔をしている。食い下がろうと息を吸えば静かに首を振られた。
ポーラが席を立つ。先程紅茶の準備をしていた際、キッチンに洗剤などは見当たらなかった。シンクに自身のカップを置き、水で浸して彼女が後始末を終える。そのまま部屋の入り口と足を向ける彼女を追って、せめてもと椅子を立ち、キッチンと広間を繋ぐ扉の前へと着いていく。
「付き合ってくれてありがとう。シャルくん」
半分だけ押し開けたドアノブから一度手を離し、ポーラ振り返る。どこか色を失った顔で、それでも彼女の口調は落ち着いていた。
「大したことはしてないよ」
「それでも嬉しかったよ。よかったら、また」
こちらを見上げながら言葉を紡いでいたポーラが唇を引き結ぶ。
「ポーラ?」
「……ううん、なんでもない」
付け加えるように言い、髪と変わらぬ明るさの眉を下げる。朝食に誘ってくれた時と同じ首の傾げ方をして、彼女は小さく声を乗せた。
「またあとで」
舌に残る紅茶の味は、甘味とも苦味ともつかない不明瞭なものだった。
ポーラを見送った後、使用したカトラリーを簡単に整えてキッチンを出た時、広間からはとうに誰もいなくなっていた。時計の指し示す数字を見て、占い師の議論を終えてから40分ほど経過していたことを知る。深みのある黒色をした扉を通り抜け、背中越しに重たい摩擦の音を聞く。
考えればいくらでも探せたのだろうが、やらなければいけないことは思いつかなかった。頭がまともに回っていないことは自覚している。腹が満たされたのかさえ曖昧だった。ひとまず部屋に戻ろうかと右足を踏み出してから、アシュクの部屋がフラッシュバックして脚が固まる。
部屋には居たくない。今、一人きりの場所に閉じ込められたくはなかった。不鮮明な思考を手繰り寄せる。前方にかけた体重を戻し、肺に留まっていた空気を押し出す。
陽の光を浴びたい。誰もいない廊下の隅で、見つけた欲求はそれだった。朝の風が流れる散歩道とは似ても似つかないが、屋敷を軽く歩いてみようか。
思えば、この建物がどれほどの規模か、他にどのような設備が揃えられているのかは知らなかった。
各自の部屋へと続いていく目先の回廊から離れ、まだ進んだことのない右手側へと曲がる。床に敷かれた真紅、等間隔で配置された植物と花瓶。一見して廊下に違いは見当たらなかったが、歩き始めてすぐに気づいた。今俺が立っている通路は反対側のそれと比べて極端に短いのだ。
代わりに、二つ目の花を超えたところで、床を挟む壁と壁が幅を変えた。廊下と一続きになる形で空間があったのだ。部屋よりも一回りほど小さなその場所に扉や仕切りの類はない。壁掛けのランプが足元をほのかに照らしている。
廊下の先は踊り場になっていた。広間のテーブルに似た、飴色と漆黒のまだらな模様が独特の雰囲気を醸し出している。屋敷の内装に溶け込んだ豪奢な階段だ。等間隔の折り目がついたカーペットは上へと続く。
特別惹かれたわけではない。それでも引き返す理由は浮かばなかった。滑らかな手摺に指を添えて、一段目に足を乗せる。
階段はゆるやかな曲線を描いていた。変化のない壁の模様を眺めながら長い道のりを辿っていく。数十段分を繰り返し、最後の段差を踏み締めた時、まず目に飛び込んできたのは光だった。
行き着いた先は吹き抜けの場所だ。高い天井に面した側に真赤の壁は存在せず、端には濃色の手摺が付けられている。ロフトのような形で、階下を覗き込むことができる構造になっていた。ソファやテーブルといった家具はないものの、どこかホテルのラウンジを思わせる。
渡り廊下というにはやや広い。周囲から切り取られたこの場所は、しんと澄んだ空気に包まれている。
そこには一人の先客が居た。
自意識とは別のなにかが視線を奪っていく。物語を読み終えて漏れるため息のように、自分の喉が小さく震えた。そうしてほんのわずかだけ揺れた空気の音に、その人物は気づいたらしかった。
距離にしてテーブルひとつ分ほどの位置で欄干にもたれていた彼は、ごく自然な動作でこちらを見やった。何気なく放ったであろう目線が俺を捉える。表情に含まれる心情を読み取ることはできなかった。
ただ。彼の瞳を象る色彩は、シャンデリアの下で見た昨日の青よりもずっと淡い色をしている。そんなとりとめのないことを思った。
「なに、してたの」




