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小憩 2

 歯を立てれば、トーストされたパンの外側が軽快な音を立てた。音の尖り方とは異なり、実際の食感は見た目通りの柔らかさをしていて、少し遅れて甘辛いソースと卵の味が舌に広がる。

 文句のつけどころがない、想像していたよりもずっと味の良いサンドイッチ。抱いた素直な感想はそんなものだ。


「わ、レストランの料理みたい! 美味しいね」


 ポーラが頰を緩ませる。彼女が持つサンドイッチの端からは、たっぷりのクリームと赤色の果実が覗いていた。

 二人分の紅茶と皿を並べても、一対一のテーブルは依然として広く感じられる。十人余りの集いを昨夜から今朝にかけて経験しているせいだろう。参加者が片手に収まる朝食の場は、議論の際とはまた違った静けさが漂っていた。


 今なら、他者の目を気にすることなく話ができる。俺たちはなぜ。どうして。夜中の時間は。ケイトは、アシュクは。はて、君は村人か。

 頭に浮かんだ語の切れ端は、どれもこれも問いにならず溶け消えていく。異様なほどに穏やかな時間が流れているこの部屋で、現状に相応しいはずの話題を口にするのは憚られた。


「紅茶も美味しいよ、淹れるの上手なんだね。なんかすごく久しぶりな気がする」


 カップの縁から唇を離し、味わうように目を伏せる。続けて彼女はシュガーポットを手繰り寄せた。ライトブルーで塗られた蓋を持ち上げ、中から小さなトングを取り出す。そのまま角砂糖を掴めば、白い結晶でてきていた隅が崩れ、水滴を跳ねさせて紅茶に落ちる。四角形二つ分の甘さを加えてから、ポーラがティースプーンを回す。


「シャルくんはサンドイッチ好き?」

「どうだろ、人並みかな。卵料理が好きだから、だいたい朝はスクランブルエッグで済ませちゃうかも」

「そうなんだ! シャルくんが作るの?」

「うん、母親が朝弱くて。最近は俺がやってるかな」


 アラームを五度ほど鳴らし、寝癖をつけながら階段を降りてくる母を思い返しながら答える。午前のうちはもっぱら眠気に負け続けている母は、半分閉じた目を擦りながら、俺が用意した簡易な朝食を楽しそうに食べるのだ。

 一方の父は、早朝に一人起き出しては毎日コーヒーを飲む。腹を空かせていないような顔をしていても、食事はいるかと聞けば必ず食べると返されるので、自分の料理はそれほど酷い出来ではないのだろうと思っている。


「そうなんだ」


 わずかに肩をすくめて、ポーラが微笑む。

 昨晩初めて出会った、名前しか知らない相手と、ようやく交わしたたわいない会話。自己紹介のその先の交流ができたことが、まるで奇跡のように思えた。

 手元のカップを持ち上げる。ミルクも砂糖も入っていない純粋な紅茶は透き通った水色をしている。喉に落ちていく温度が、まだ浅いところにある眠気を引き戻すようだった。


「ありがとう、本当に」


 胸元に届いた熱がじわりと体内を解していく。鼻に抜けた柑橘類らしき香りが、日常の繰り返しにあった、変わり映えのない朝を思い出させる。


「……怖くて。どうしたらいいのか、もう分からなくて」


 カップの中身を混ぜていた手を止めて、ポーラが声を漏らす。


「一人でいたくなかったの。何もかも起きなかったみたいに、落ち着く時間が欲しくて」


 震えるように吐き出されたその台詞が、気の狂った舞台に放り込まれた演者の本心なのだと、どこかで眺めているであろう興行主に吠えてやりたくなる。


「だから、シャルくんが居てくれてよかった」

「うん」


 良くなど、全くない。俺だったら、よかったなんて言葉を選ぶことはきっとできなかった。

 優しい表情をして笑う彼女がどれほど強い人間なのか、この舞台の主催者は考えることすらせず、踏み躙ろうとしているのだ。

 ふいに、唇の内側に軽い痛みが走った。無意識のうちに力を入れていたらしい。皮を裂いて滲んだ血の味が舌を刺激する。連想された記憶を誤魔化すため、もう一度カップに口をつけた。


「私ね、一つ下に妹がいて」


 向かいから音が届く。目線を送れば、彼女はちょうど残り一口の甘い朝食を口に運んでいたところだった。丁寧に咀嚼し切ってから、ごめんね、とはにかんで言葉を続ける。


「朝ごはんはいつも二人で準備するの。私が飲み物を淹れて、妹がトーストとかの担当なんだ」

「仲良いんだ。妹さんが料理得意なの?」

「そうそう! 私がお願いすると絶対作ってくれるの。フレンチトーストはふわふわで美味しくて、本当に上手なんだよ」


 俺の疑問に肯定を返した瞳が煌めく。彼女の表情は一気に明るくなった。家族の話をするポーラの口調は踊るように弾んでいる。


「すごく好きなんだ、朝の時間」


 半分ほど食べたチキンのサンドイッチをプレートに置く。指先についたパンの粉を皿に落として、手をテーブルに戻しポーラの目を見る。


「素敵だね」


 優しく丸められた瞳と視線が合った。ポーラがカップの持ち手に触れる。


「……うん」


 陶器のカップを持ち上げる仕草に従って、雲のような薄い湯気が形を変えた。彼女が静かに中身を飲む。下ろしたカップをソーサーに重ねて、ポーラはおもむろに視線を落とす。


「あの子の」


 色素の薄いまつ毛が震える。彼女の唇から発された音が、愛情からくる伸びやかさを失って、微かに低く落ちたのが分かった。この舞台に集められてたった数時間で、嫌になるほど耳にしてしまった、失望に染められた声。


「朝ごはん食べたい」


 その願いと一緒に、ポーラの手のひらに力が込められたのが分かった。触れたままのカップに 感情を押し込めるように、彼女の身体が強張る。ポーラが見つめている、温かなミルクティーと同じ色の髪が表情を隠した。

 乳白色で覆われたキッチンに暖色のランプが光を加える。適切な明るさで照らされた卓上はひどく不自然で、居心地が良く、なぜだかとても息苦しかった。

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