思惑 5
尋ね返せば、用事を思い出したらしいポーラが首を縦に振った。あのね、と話を切り出す。
「シャルくんが来るのを待っている間、みんなでこの部屋を調べてたの。それでね」
一度そこで言葉を区切る。周囲を確認するためかわずかに後方を振り返ってから、ポーラが腕を動かした。
「そこの部屋がキッチンになってたんだ。中にあったテーブルに、みんなの分の朝食が用意されてたの。シャルくんは居なかったから伝えておかなきゃと思って」
まっすぐに伸ばされた手が、ごく浅い箇所にある記憶を刺激した。つい先程、議論の発端となった占いの結果が思い出される。首筋に痛みが走ったような錯覚を覚えた。複雑な気持ちを抱きながら、彼女が示した方向へと視線を投げる。
ポーラが指していたのは、入り口から見て右手側にある壁だった。赤い壁紙を裂いて置かれているのは一枚の扉だ。入り口にあるものとは違い、木の質感をそのまま残した焦茶色をしている。
「朝食……そうなんだ」
朝食という響きを随分と久しぶりに聞いた気がする。昨晩から今朝方にかけて食事は取っていなかった。相当な時間が経っているような気すらしてくるが、実際はまだ一日も過ごしていないのだ。
それなのに、全くもって腹は減っていなかった。満腹感があるわけでもない。身体の中に別のものが詰め込まれているかのような、重さのある圧迫感が腹を満たしている。
キッチンに続くドアへと放っていた視線を戻す。教えてくれてありがとう、そう伝えようとポーラに向き直る。
「……シャルくんはお腹空いてる?」
「え?」
ポーラの瞳がこちらを覗く。その問われ方が単純な疑問とは異なっている気がして、返答までに間が生まれてしまう。
「さほど空いてはいないかな。俺以外は誰か食べたりしてた?」
「誰も口にしてないよ。みんな、それどころじゃなかったし」
「そっか」
アシュクの姿を確認した後、俺は一人で部屋を抜け出してしまった。よって再度広間に集まるまでの全員の様子は知らない。けれど想像するのは容易だ。
こびりつく血液の匂い、網膜に焼き付いた肉体だけの塊。それらと対峙した直後の皆が、穏やかな朝の時間など迎えているはずがなかった。
ポーラと話をしているうちに、広間に残っている人間は少なくなっていた。椅子に腰掛けたままの白い男と、壁際に佇んでいるピンクアッシュの女の子が二人。ニナともう一人の男は知らぬ間に部屋を出ていたらしい。
会話をしているのが俺たちだけなので、ポーラの言葉が途切れてしまえばたちまちに沈黙が広がっていく。
際立った静けさに触発されて思い出されたのは、この赤い空間が人の声で満たされる状況だった。単語になる前の不明瞭な音を叫ぶ、それでも感情は痛いほどに伝わるあの時間。
錯覚ではなかったかもしれない。首の後ろがまたぴりぴりと痛む。
「やっぱりおかしいかな」
初めは、俺が聞き間違えたのだと思った。彼女の声は掠れていて、俯き加減で発された言葉は雑音じみていた。
「こんな状況で。それでもお腹が減るの、変なのかな」
語勢が弱まる。それが至極大事な物であるかのように、ポーラは本を両腕に抱えていた。そこに綴られた戒律は、自分たちを縛る気の狂ったルールだ。現状と噛み合わない扱われ方がひどく皮肉に映る。胸に押し当てた表紙を掴む指先は震えていた。
「誰が用意したかも、何が入ってるかさえ分からないものなんて、食べるわけにいかないよね」
誰かに諭された言葉を繰り返すように、ポーラは呟く。背の低いポーラに下を向かれてしまうと、俺の方から表情を伺うことはできない。彼女の顔を覗き込むのも躊躇ってしまう。一歩踏み込めないままでいるうちに、ポーラがぱ、と顔を上げた。
「それだけ伝えたかったんだ! シャルくんも気をつけてね」
肩を竦ませて首を傾げる。垂れていたセミロングが頬を滑っていく。耳に引っかかった髪の一束が、彼女の瞳に半分だけ影を落とした。
「一緒に食べる?」
口をついたのは脈絡のない誘いだった。
え、と空気を押し出すように単音がこぼれる。こちらを捉えるポーラの目が丸く見開かれ、ブラウンの縁が綺麗に現れた。
唐突すぎただろうか。なんで、と吐き出されたポーラの疑問に、正しい表現は何かと考えながら口を開く。
「ここに居る以上いつかは食べる必要が出てくるもんね。動けなくなったら怖いし、なにより」
ポーラは俺の視線より少し下にいる。彼女の目をきちんと見据えられるよう、姿勢を正して言葉を選ぶ。
「生きてるんだから、食べたいなって思うよ」
ポーラが息を吸う。幾度か形の変わった口がやがて閉じられた。
うん。肯定の返事が空気を震わせた後、彼女が唇を噛む。続けてもう一度、小さく頷いた。




