板付 5
自身が押し開けたドアの音がどこか遠くに感じられる。あと数歩分の個室へ入る余裕はなかった。洗面台に手をつく。喉元を圧迫する苦しさに絶えかねて目を瞑る。
身体のどこに力を入れていいのか分かず、混乱する頭がさらに思考の余地を奪っていく。呼吸さえも辛く、息を止めて指先を握りしめた。
「……ゔ、ぇ」
そういえば、昨晩から今朝にかけては何も食べていない。放心状態でベッドに入り、目が覚めてからは直接広間に向かったので、思えば水すら口にしていなかった。
十時間あまり物を摂取していない胃の中は空っぽで、えずいても固形物が出てくることはない。かえって、食道を逆流する胃液の感覚が直に分かってしまう。
背を丸めて、不快な感触が口内から逃げていくのを待つ。喉奥でおかしな音が鳴った。吐き出すタイミングを上手く掴めずに数度咳き込む。
幼い頃に体調を崩した時以来の嘔吐は、慣れない刺激ばかりで鳥肌が立った。柔らかい布団の中、背をさすってくれていた母の手が思い出される。
鼻の奥が痛む。込み上げてきたものが鼻に回ったのだろうか。
口からこぼれた液体がびしゃびしゃと洗面台を叩くのが、聞きたくもないのに耳を打つ。途切れ途切れの意識を、手の内側に食い込ませた爪の痛みで保っていた。
どれくらい経ったのだろう。
前屈みのままぼんやりと考える。いくらかは落ち着きを取り戻してきた。
状況を直視すると吐き気が戻ってきそうで、まだ目は開けないまま恐る恐る息を吸う。
ようやくまともに取り入れることのできた酸素には、様々な匂いが混じっていた。爽快などとは到底言えないが、先ほどまで纏わりついていた空気とは全く違うもの。緊張とも違う、何か恐ろしい拘束から解放されるような、そんな感覚がした。
手探りでコックを探し、触れた取っ手を捻る。流れ出る水の音に意識を集中させれば、 胸元に残っていた不快感がかき消されていくのが分かった。口をすすぐ。水を止めて、もう一度深く息を吸ってから、瞼を開ける。
目前の鏡は、曇りひとつない状態で周囲を映していた。想像通り蒼白になった自身の顔と対峙する。
頬は冷たかった。目の淵に溜まっては限界に達した粒が、ぼたぼたとこぼれては落ちていく。水滴の通り道が濡れた跡を作る。力の抜けた肩に従って項垂れれば、雫は軌道を変えて洗面台へと降った。
どうして俺はこの場にいるのだろう。前説もなく集められた舞台で、村人として振る舞うことを強いられた。人狼を処刑し、人狼に喰われる。どうしてそんな役割を演じなければいけないのか。色んな思考が浮かんでは途切れていく。
支離滅裂になった脳内に、アシュクの、ケイトの姿が浮かんだ。彼らが居るのは血溜まりの中でも床の上でもない。記憶に残る、生きていた二人の表情が頭を掠めた時、ひとつの結論が導びかれた。
栓が壊れて止まることのない涙ごと、ガラス越しの自分自身を睨む。生まれて初めて見た、事切れた人間の姿を消し去るべく瞬きをする。押し出された水滴が頬を伝って、次の涙は出てくることなく止まった。
思考を放棄してはいけない。生きて、この舞台を降りるために。
大理石のつややかな表面に触れた指先は、硬く冷え切っていた。




