過去
頭の痛みに苦しみながら津志田葉子は盛岡駅を目指していた。開運橋まではまだほど遠いように感じられる。さっきの一件で、気安く自分に触ってくる男に嫌悪を感じながら、取り敢えずタバコに火を付ける。街は人で溢れ、あちこちで大学生のようなノリで歓声が上がる。呑気だなと思いながらも、自分がそういう明るいノリになれないことも葉子には分かっていた。最近美容院で髪を金髪に染めたばかりだ。周囲はそんな彼女を見て見ぬふりをしたが、母親だけは心配そうに葉子をただ見守っていてくれていた。その髪色と葉子の心境は一致することなく、ただ奇抜に周囲に映っていたことは彼女の目にも明らかだった。
横断歩道で信号を待っていると若い男性が代わる代わる声をかけてくる。いい加減にしてよと無視するしかない。しつこい男は葉子の前に立ちはだかり、彼女を口説き落とそうとする。しかし葉子にはそんな男どもを信用することもできず、興味すらなかった。
ナンパが男の間で軽いムーブメントになっていることが、葉子には許しがたかった。なんという時代に自分は生きているのだと、時代を恨んだこともある。ナンパされたからといって、自分はそんなに可愛い訳がないというのが葉子の評価だった。葉子はいたって冷静だったし、自己評価は低かった。まわりの女友達はバブルの波にのまれて浮き足だっていたが、そんな彼女たちを横目に、葉子は自分に抗いがたい心の傷を背負っているのを恨まずにはいられなかった。それは友人にも話せない重大な出来事だ。
葉子には高校生の頃光るという恋人がいた。ごくありふれた二人の関係は順調そのものに見えた。しかし光は人生に思い悩むことが多く、葉子もそんな光を鼓舞するような声がけをしてしまう。そしてそのことがすべて失敗だったことを葉子はのちに嫌と言うほど思い知らされる。
高校二年生の冬休みのよく晴れた午後、家電に光の母親から電話がかかってきた。どうしたのだろうと母親から電話を受け取ると、光の母親から意外な言葉を聞くことになる。
「もしもし、葉ちゃん。落ち着いて聞いてね。光が亡くなったの。部屋で・・・・首を・・・・・」そう言って泣き崩れたのだろう。葉子は一瞬で全てが繋がったような気がした。あの生きずらい生をまとって、光は心の奥に秘めた死を押し殺して生きてきたのだろう。
葉子は冷静を保とうとしたが、大粒の涙が頬を流れる。
「ごめんなさい。私は何もしてあげられなかった。お母さんごめんなさい。全て私のせいなんです。光君の気持ちも知らないで、鼓舞するようなことをして・・・・」太陽が南の空で気持ちよさそうに泳いでいる。それを横目に葉子は光の母親の言葉を待った。心臓が胸から飛び出しそうなくらい膨らんでいた。
あの時の頭痛が今も忘れることができない。あのとき私はどうすればよかったのだろう?けっきょく光の母親は簡単な礼を言って電話を切った。冷たくなった受話器をしばらく握りしめていると、部屋を隔てたキッチンからママが夕飯の支度ができたわよと、朗らかに言うのが許せずに、葉子は家を飛び出して学校へ向かって走っていた。その後どこにたどり着いたのか、今も遠い記憶の中で思い出せない。




