第97話 砂上に閃く薄蒼
アレナ・マグナには、立錐の余地もなかった。
結界の外まで観客が溢れ、内部の観客席は、いつもよりさらにぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
熱と汗と砂の匂いが混ざり合い、視界の端で陽炎のように揺れていた。
観客席中央の壇上では、司祭たちが魔符を起動させ、詠唱を重ねる。
砂の上に紋章が浮かび、幾何学模様が光を帯びる。
やがて、その光が観客席を包むように弧を描き、透明な膜を張った。
「──結界、完全展開!」
司祭の声が響き、観客から歓声が爆ぜた。
砂の舞台に、二つの影が対峙する。
一人は、黒髪の男。
不死身の剣闘士――ドーレイ。
全身には以前よりも濃い赤黒のオーラがまとわりつき、まるで皮膚と一体化した“鎧”のように見えた。
もう一人は、長身の槍使い。
序列第三位、七星“魔槍”ブリューナク。
灰色の修道服に白い肩掛け。
僧侶とも軍人ともつかぬ装いだが、その手に握られた槍だけは明らかに“戦いのためのもの”だった。
黒鉄色の柄には細かな呪紋が刻まれ、穂先は鋼よりも薄く、しかし異様な厚みを感じさせる。
光を受けるたび、刃の縁に青白い稲光のようなものがちらついた。
槍の周囲で揺らめくのは、水でも風でもない。
鋼を冷やしたときのような“冷たい薄蒼”の闘気だった。
見ているだけで、皮膚の下までじわりと刺さってくるような、研ぎ澄まされた貫通の圧。
金色の髪を後ろで一つに束ねたブリューナクは、その槍に寄りかかるように立ちながら、冷たい灰色の瞳で対面の男を見据えている。
「……貴様が“不死身”か」
ブリューナクが初めて口を開いた。
「想像よりも、ずっと“生き残りそうな顔”をしている」
「そいつはどうも」
ドーレイは片手で剣を肩に担ぎながら、砂を踏みしめる。
指輪が指の中で微かに熱を帯びるのを感じた。
(アルマの力を本気で借りりゃ、きっと楽なんだろうが……。
今はまだ要らねぇ。まずは俺の“今”がどこまで通じるかだ)
剣を構えた瞬間、赤黒いオーラが刃に集束する。
同時に、全身を包んでいたオーラもわずかに薄くなり、外套のように揺れた。
「はじめ!」
審判の声が上がると同時に、観客席から歓声と怒号が押し寄せた。
しかし、砂の上は静かだった。
互いに一歩も動かない。
ただ、相手の“呼吸”だけを測っている。
ブリューナクが最初に動いた。
槍の穂先が、わずかに揺れる。
次の瞬間には、目の前にあった。
「──ッ」
ドーレイは反射的に剣を立て、横から弾いた。
キィン、と金属音。
穂先は触れていない。
それでも、剣に伝わる振動が腕の骨を震わせる。
(……速ぇ)
視界の端で、蒼い残光が揺れる。
かわしたと思った方向から、二撃目。
槍が曲がったわけではない。
初撃から次撃までの“間”が、ほとんど存在しないだけだ。
ドーレイは後ろへ跳び、足もとに砂煙が上がる。
その空間を、冷たい薄蒼の軌跡が一直線に貫いた。
「おいおい、七星ってのは挨拶代わりに殺しにくんのかよ」
口では軽口を叩きながら、内心では全神経を槍の動きに集中させる。
ブリューナクは追い立てるように、さらに一歩踏み込んできた。
薄蒼の闘気が槍の穂先に一点、濃く凝縮する。
そこから伸びた“刺突”は、もはや槍の長さだけではない。
空間ごと、えぐり取るような速度。
「はっ!」
ドーレイも踏み込んだ。
剣が横へ払われ、槍の軌道を逸らす。
火花と砂が混じり合って散った。
しかし、その瞬間。
穂先が“折れるように”角度を変えた。
「……ッ!」
見えたときには、左肩に走る熱。
赤い線が浮かび、すぐに血が噴き出した。
観客席から歓声が上がる。
「入ったぞ! 七星の一撃だ!」
「不死身が血を流したぞ!」
ブリューナクはひとつ息を吐き、穂先についた血を軽く払った。
「悪くない反応だ。
普通の剣闘士なら、今ので肩ごと持っていかれている」
「こっちは“普通”じゃねぇって有名らしいからな」
ドーレイは口角を上げる。
痛みはある。
だが、まだ骨までは届いていない。
(……こっちの動き、全部読んで打ち込んでやがる)
突きの“癖”がない。
軌道が綺麗すぎて、逆に読みづらい。
剣を持つ右腕に、じわりと力がこもる。
赤黒いオーラが、さらに濃く剣身を包み込む。
「次は、こっちからだ」
短くそう言って、ドーレイは砂を踏み砕く勢いで前へ出た。
赤黒い残光が、弧を描く。
ブリューナクは後ろへ退く代わりに、槍をわずかに寝かせた。
穂先を防御に使うのではなく、柄ごと斜めに滑らせる。
──ガキィンッ!!
剣と槍が噛み合い、火花が散る。
ドーレイは力任せに押し込んだ。
しかし、押し負けない。
ブリューナクの足は砂にめり込んでいるのに、それ以上下がらない。
(重さは、そこまでじゃねぇ……のに)
槍の柄のどこかに、“支点”を作っている。
腕だけではなく、全身を一本の槍に通している感覚。
真正面から押し合うのをやめ、ドーレイは足を払うように砂を蹴った。
剣の軌道が変わり、ブリューナクの脇腹を狙う。
しかし――そこには、槍があった。
柄の端がすっと滑り込み、赤黒い刃を受け止める。
「……ちょこまかと、よく噛み合う槍だな」
「貴様の剣も、よく“死なない場所”を通る」
ブリューナクが静かに笑う。
「少し、楽しくなってきた」
次の瞬間。
穂先が、獣の牙のように閃いた。
胸元、喉元、脚、腕。
四連の刺突が、一息の間に畳み掛けられる。
ドーレイは剣と体捌きでかろうじて捌ききるが、そのたびに皮膚が浅く裂かれ、赤い線が増えていく。
血の匂いが、砂の上に広がった。
観客席からは悲鳴と歓声が入り混じる。
「どうした不死身! もう血まみれじゃねぇか!」
「まだ立ってる! まだ目が死んでねぇぞ!」
ドーレイはひとつ息を吐き、足を止めた。
赤黒いオーラが、徐々に全身へと広がり始める。
剣の周りだけでなく、肩、胸、脚。
その様子を見て、ブリューナクの灰色の瞳がわずかに細められた。
「……まだ“底”ではないようだな」
「そっちこそ。七星って看板、こんなもんじゃねぇだろ」
ドーレイの声は、まだ軽い。
だが、空気は確実に変わりつつあった。
砂に落ちた血が、じわじわと赤黒く染まっていく。
赤黒のオーラと、冷たい薄蒼の闘気。
二つの色が、砂の上でぶつかり合いながら――
まだ、ほんの“序章”にすぎない攻防を積み重ねていくのだった。




