第90話 失われた癒やし手、黒き三日月の影に
――白い天井だった。
いや、よく見れば白ではない。砂と血と煤でくすんだ、薄汚れた布の天井。
(……ここは)
鼻を刺す薬草と血の匂い。かすかに聞こえる呻き声と、誰かの足音。
身体を動かそうとして、全身を走る鈍い痛みに思わず眉をひそめた。
「……っ……」
「――目を覚ましたのね!」
横から飛び込んできた声に、首だけそちらを向ける。
マルナがいた。
椅子に腰かけたまま上半身をこちらに乗り出し、長い髪をざくざくと後ろでまとめている。
目の下にはうっすらと隈が浮かび、その瞳には心底ほっとした色が宿っていた。
「ドーレイ。ここ、わかる?」
「……さぁな。天井が低いのと、臭いのきつさはわかる」
声が掠れている。自分でも驚くほど、喉が砂を噛んだみたいに乾いていた。
「ここはどこだ?」
「ワーレンの冒険者ギルドが、街の外に張った仮設キャンプよ。
街の中は……もう、まともに人が住める状態じゃないわ。ギルドと帝国兵、それに教会が協議して、怪我人は一旦外に出してるの」
マルナは苦笑して、肩をすくめてみせる。
「あなたに追いつくの、本当に大変だったんだから」
「……そうか」
ようやく状況の輪郭が見えてくる。
テントの中。粗末だが清潔に整えられたベッド。周囲には簡易の仕切りと、薬草の詰まった木箱。
(あのあと、俺は……)
タルタロス・ウォーデンを斬り伏せた。核を砕き、黒い司祭は逃げた。
そこまでは覚えている。
そのあとの記憶が、すっぱりと途切れていた。
「どれくらい、寝てた?」
「一昼夜くらい。丸一日、意識が戻らなかったわ」
「……寝すぎたな」
冗談めかして言いながら、胸の奥がざわつく。
「ヴェラとセリナは?」
真っ先にその名前が出ていた。
マルナの表情が、少しだけ陰る。
「ヴェラさんは、さっきまでこのテントで寝てた。今は別のテントに移ってるけど……まだ無茶しようとしてるわ」
「まだ、ってことは……生きてるんだな」
「ええ。シスターが必死で手当てしてくれたおかげね」
そこで、一拍おいて。
「セリナさんは……」
「……いないのか?」
マルナは、ゆっくりと首を横に振った。
「行方不明だそうよ」
「行方不明?」
胸の奥で、嫌な熱が膨らむ。
「どういうことだ」
マルナが腰のポーチを探り、一枚の紙を取り出した。折り目だらけの封筒だ。
「あなたのお仲間から、預かってる。
“不死身が目を覚ましたら、真っ先にこれを渡してくれ”って」
差出人は書いてない。だが、開けるまでもなく誰のものか分かる。
(ジャレド、か)
上体を起こそうとして、身体がぐらりと揺れた。
マルナが慌てて背中に手を回す。
「まだ無茶しないで。読むくらいなら支えるわ」
「助かる」
封をちぎり、中の紙を広げる。
粗い字が、乱暴な言葉遣いのまま、そこに連ねられていた。
――なかなか目を覚さないから、必要なことを手短に手紙に残す。
セリナが攫われた。
攫ったのは、イーブルアイっていう組織だ。
エルガとヴェラが過去に因縁があるらしい。
詳しいことは、ヴェラに直接聞け。
それと、これもヴェラから聞いた話しだが、廃砦で一緒になった四級の冒険者、トゥリオ。
あいつも烏に所属していた可能性が高い。
セリナを連れてったのはそいつで間違いない。
俺は帝都にある情報屋に向かう。
烏とイーブルアイ、その背後にいる奴らについて、少しでも手がかりを掘り起こす。
セリナは、必ず取り返す。
回復したらお前は別で動け。
――そこまで読んで、紙から視線を離した。
「……あいつらしいな」
情報を絞りに絞って、必要なことだけを書いた短い手紙。
字は汚いのに、妙に芯が通っている。
「セリナを攫った相手は、イーブルアイ……?」
マルナが眉をひそめる。
「エルガさんとヴェラさんの過去に関係ある組織……って聞いたわ。
それと、トゥリオ。覚えてるわよね?」
「トゥリオ……」
名前を口にした途端、崩れる廃砦と、あの軽そうな笑い声が頭に浮かんだ。
「俺たちが落ちる前に、偵察に行ったやつだよな」
「ええ、そうよ。
彼とは……あの廃砦であなた達と出会う前日の夜に偶然。
その前から、帝都のギルドで顔見知りだったけど」
「偶然、ね。
お前達はもともと四人のパーティじゃなかったってことか?」
「ええ。
ギルドからは、同じ依頼を受けたパーティが複数いるって説明はされてたけど……。
トゥリオは、一人だった。ギルド札を見せてきて、“同じ依頼だ”って言ってたわ」
自分の胸の底で、苛立ちがじわりと広がるのを感じた。
(なら、あいつは最初から――)
「最初からセリナが狙われてたってことか」
口に出してみると、それはあまりにも自然に、しっくりと嵌まってしまった。
「どうする?」
マルナが問う。
ドーレイは手紙を握りしめたまま、短く息を吐いた。
「どうするも何も、まだ全体が見えてねぇ。
イーブルアイ、烏ってぇのがどんな集団かもわからないし、まずは情報を集めるのが先だ」
紙が、握る手の中でしわになった。
「そのために――まずはヴェラを叩き起こす」
◇
テントの列を抜けた先、少し大きめの白布の天幕の前で、人だかりができていた。
「ヴェラさん、まだ立っちゃ駄目です!!」
「傷が完全に塞がってないんです、横になって――」
若い女の声と、必死に押さえつける足音。
マルナが幕をめくる前に、ドーレイは一歩先に中へ入った。
中には、粗末な木製のベッドが三つ並べられていた。
そのうち一つの上で、ヴェラが外套を羽織ろうとしていて、白いローブの女がそれを必死に止めている。
ローブの胸元には、小さな銀の十字架。
肩までの褐色の髪を一つに束ね、真剣な目でヴェラを睨んでいた。
「ヴェラさん、お願いです。私はシスター・シエナと言います。治癒士として言わせてください。
今動いたら、さっき繋いだ血管がまた裂けます!」
「いいのよ、そんなの」
ヴェラは淡々と言い放つ。
顔色はまだ悪く、唇も乾いているのに、その目だけは妙に冴えている。
「私のせいでこうなったんだもの」
「……おい」
その言葉に、ドーレイの足が自然とベッドのそばで止まった。
ヴェラがこちらを見る。
ほんの一瞬、目を丸くしたが、すぐにいつもの皮肉っぽい笑みに戻る。
「……起きたのね、不死身」
「お前もな」
そう返すと、ヴェラはふっと笑い、すぐに俯いた。
「シエナ。少しだけいいか」
ドーレイがそう言うと、シエナは一瞬躊躇したあと、深く息を吐いた。
「……五分だけです。それ以上は本当に止めますからね」
そう言い残し、テントの入口付近へ下がる。
距離を取りはするが、完全には目を離さないあたり、本気でヴェラの身体を気遣っているのが分かった。
ベッドのそばに椅子がひとつあった。
ドーレイはそれに腰を下ろし、ヴェラと視線を合わせる。
「出発の準備、だとよ」
「聞こえてた?」
「テント一枚じゃ大体な」
ヴェラは小さく息を吐いた。
自嘲とも諦めともつかない笑みが浮かぶ。
「……セリナが拉致されたのは、私のせいよ」
「ジャレドから大筋は聞いた。
ヴェラ、お前達の過去はどうでもいい。トゥリオが犯人で間違いないのか?」
トゥリオの名を出した瞬間、ヴェラの首筋の痛みが蘇る。
「間違いない……」
掠れた声。
「トゥリオで間違いないわ」
ヴェラは自分の胸元を握りしめた。
「ヤツは四級の冒険者なんかじゃない……一瞬だったけど、あのオーラの量、と身のこなし……異常よ」
「戦ったのか?まぁいい。犯人がトゥリオだとして、行き先に目星はつくのか?」
ヴェラは唇を噛み、目を逸らす。
「港にある倉庫街、そこにある烏の拠点に、たくさんの人が囚われていて、その中にセリナがいたのかも……」
「ならまずはそこを探すか」
ドーレイは短く答えると、すぐにテントを出た。
◇
──同じ頃、帝都バル=ゼルン。
陽が落ちきった帝都の空には、幾つもの魔導灯が星のように瞬いていた。
だが、城郭の北側――高台に建つひときわ大きな邸宅だけは、周囲の明かりとは別種の静かな灯りに包まれている。
黒曜石を思わせる深い色の石造り。
玄関へ続く階段の両脇には、黒い三日月を象った石柱が屹立している。
ヴァロニス公爵家。
帝都における四大公爵家のひとつにして、帝国軍財政と一部の教会寄進を握る名門。
その紋章は、夜空を切り裂くように傾いだ黒の三日月。
重厚な扉の内側、広い書斎にはふたりの男がいた。
ひとりは、黒を基調とした礼服を纏った壮年の男。
鋭い鷹のような眼差しに、銀を帯びた黒髪。
机の上には帝国各地の地図と、封蝋付きの書簡が幾つも積まれている。
ヴァロニス公爵、エルンスト・ヴァロニス。
もうひとりは、灰色の修道服に白い肩掛けを合わせた男だった。
「……ワーレンが、想定以上に荒れたそうですね」
修道服の男が、伏せたままの瞳の奥で笑みを揺らした。
「アンデッドの軍勢。タウロス・ネクラ。そしてその上位個体。
ロズ殿がつい少しばかり張り切っていただいたようで」
「構わん」
エルンストは短く答えた。
「今回の騒動に、我々は何も関与していない。黒燭会と烏が起こしたこと。それでこの話は終わりだ。
ただ──」
彼は机の上の一枚の報告書に指を置いた。
「不死身……ゼルハラの不死身か?」
「ええ」
修道服の男が、ゆっくりと頷く。
「ロズ殿の報告では、“不死身の奴隷剣闘士”によるものだとか。
赤黒いオーラを纏い、タルタロス級の災厄をも切り伏せた……と」
エルンストはわずかに目を細めた。
「……エルディア派から上がってきていた名と、一致するな」
「はい。“不死身のドーレイ”。
以前、シルバーに留めておいたエルガを当てましたが、打ち倒したものです。」
「こちら側に引き込めないのか?」
公爵は淡々と告げた。
「まぁ直接手を出せば、ガルマと異端審問局が黙っておるまい。
あの辺りとの力関係はまだ調整中だ。今は様子を見る」
修道服の男が、少しだけ首を傾げる。
「では、不死身の件は当面保留として……」
「収穫の話を聞かせてもらおうか」
促され、男は懐から黒い羊皮紙を取り出した。
そこには簡素な図と、いくつかの名が記されている。
「烏に忍ばせておいた犬からの報告です。
公爵様がお求めになっていた、贄の件──」
「セリナ・アルマス」
エルンストが名を口にする。
「アルマス家の血筋。ガルマ、あの狸め。知ってて隠しておったな。」
「現在は公爵家名義ではない“匿名所有”の船にて、拘束しております」
エルンストは小さく頷いた。
「であれば、背骨に向かわせろ。新たな魔神を降臨させる。」
公爵の視線が、壁に掲げられた黒い三日月の紋章へ向かう。
「失敗して潜伏している梟の連中と、エルディアにも伝えろ。時が来たとな。」
「畏まりました、公爵様」
修道服の男が恭しく頭を垂れる。
その肩越しに、夜の帝都が遠くまたたいていた。
エルンスト・ヴァロニスはゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
帝都城の尖塔が、闇の中で白く浮かんでいる。
あの場所に座る男を、彼は一度も「王」と呼んだことがない。
「……魔神も、古き災厄も、すべては“道具”だ」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
「帝都を落とすのが目的ではない。
焼け落ちた瓦礫の上に、新しい“秩序”を据えること──それこそが、ヴァロニスの悲願だ」
歳月をかけて編んだ縦糸と横糸が、静かにきしむ音がした気がした。
「王位も、教会も、魔神すらも。
最終的には、すべてこの手の届く場所に揃えばいい」
窓の外で、黒い三日月の旗が夜風にはためく。
帝都を照らす魔導灯の海の向こうで、まだ誰も知らない“陥落の日”の影が、ゆっくりと形を取り始めていた。




