第89話 地獄門の看守、赤黒の一閃(後編)
タルタロス・ウォーデンが、ゆっくりと両腕を広げた。
黒い膜が完全に閉じ、巨体全体を包み込む。
それは防御であると同時に、圧縮でもあった。
ロズが静かに告げる。
「これで最後です。
その身ごと、地獄の底へ沈んでください」
タルタロス・ウォーデンの胸部──二つの核が重なり合う位置から、漆黒の光柱が立ち上がった。
空へ向けて、地面へ向けて、同時に。
ドーレイの足もとが、軋む。
(こいつも……全力ってわけか)
ゆっくりと剣を構える。
赤黒いオーラが、今度は静かに、しかし底なしに膨れ上がっていく。
腕へ、肩へ、胸へ。
内側から何かが這い上がってくる。
誰かの声が、耳の奥で囁いた気がした。
──まだ足りない。
──もっと寄越せ。
(あるだけ喰らえよ)
赤黒いオーラの中に、かすかな「黒」が混じった。
それでも、彼の眼は濁らない。
タルタロス・ウォーデンが吠えた。
黒い膜が弾け飛び、圧縮された瘴気が一気に解放される。
二本の黒刃が、まるで落雷のような速度で振り下ろされた。
「……っ!!」
ティアが目を閉じ、シスターが祈りの言葉を噛みしめる。
ジャレドは、その瞬間を見逃すのを恐れて、瞬きをやめた。
その瞬間。
赤黒と漆黒が、広場の中心で交錯した。
──音が、遅れてやってきた。
耳が割れそうな轟音。
建物がまとめて吹き飛ばされ、石片と砂煙が夜空へ舞い上がる。
誰もが――何が起こったのか、分からなかった。
ただひとつ、はっきりしているのは。
赤黒い一閃が、タルタロス・ウォーデンの胸を斜めに貫いていたこと。
黒鉄の装甲が、内側から弾け飛ぶ。
タウロス由来の骨格と、ディスカリオン由来の呪刻が同時に砕け散った。
その中心で。
二つ分の核が、剝き出しになった。
ドーレイは、そこだけを狙っていた。
「割れろォォォッ!!」
叫びと共に、剣に込めた赤黒のオーラを一気に解放する。
核が震えた。
ひびが走り──
光が漏れ──
──爆ぜた。
赤黒い光柱が夜空を貫き、ワーレンの黒霧を一瞬だけ吹き飛ばす。
タルタロス・ウォーデンの巨体が、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
鎧が砕け、鎖が千切れ、棺が粉々に散る。
中に繋がれていた無数の呻き声が解き放たれ、夜風に溶けて消えていった。
静寂。
ドーレイは、剣を肩に乗せたまま、
ゆっくりと膝をついた。
「……っ、は……」
初めて、膝が地面に落ちる。
アルマの声が聞こえなくなり、指輪の熱が、すっと引いていくのを感じた。
(……ギリギリ、か)
視界の端で、ジャレドが荒い息をしながら笑うのが見えた。
「無茶しやがって……」
ティアは泣き顔のまま手を胸に当て、シスターは腰を抜かして座り込む。
ロズだけは――笑っていた。
◇
「……見事です」
静まり返った広場に、場違いなほど穏やかな声が響いた。
大司祭ロズ・ネ=ズールは、法杖を軽く掲げる。
先ほどまでタルタロス・ウォーデンだった場所に残った黒い残滓が、ゆらゆらと揺れた。
その中心に、極小の黒い欠片が浮かんでいるのが見えた。
核の破片。
二つ分の“残りカス”と言ってもいい。
「全く予定通りには行きませんでしたが……」
ロズは片手を伸ばした。
黒い欠片が指先へ吸い寄せられる。
「“王”を呼ぶための鍵としては、まだ十分使えるでしょう」
ドーレイが顔を上げる。
「逃がすと──」
言い切る前に、膝が笑った。
立てない。
今の一撃で、身体の中身をほとんど使い果たしている。
赤黒いオーラも、かすかに揺らめくだけになっていた。
ロズは薄く笑む。
「今ここで相討ちになるのは、こちらにとっても損失なのです。
不死身の剣闘士――まさか災厄の指輪の力を操るとは。その魂、次の機会に必ず頂きます」
「……言ってろ」
ドーレイは舌打ちした。
追う力がないことは、自分が一番よく分かっている。
ロズは法杖で地面を軽く叩いた。
「“黒き廊下よ──開け”」
彼の足もとに、黒い円陣が開く。
それはタウロス・ネクラを転移させた時のものよりも、ずっと小さい。
ロズは一歩だけ後ろへ下がり、最後にもう一度だけドーレイを見た。
「また会いましょう。
“王”の誕生を見届ける資格があるのは、あなたのような怪物だけですから」
黒い闇が、彼の姿を呑み込んだ。
タルタロス・ウォーデンの残滓ごと。
核の欠片ごと。
円陣が閉じる。
静かな夜風が吹き抜けた。
◇
ドーレイは、しばらくその場から動けなかった。
全身の力が抜け、剣を支えるのもやっとだ。
「……大丈夫か、不死身」
いつの間にか傍に来ていたジャレドが、
血だらけの顔で笑っていた。
「相変わらず、来んのが遅ぇよ」
「その前にどういう状況なんだよ、これ……」
ドーレイも苦笑で返す。
ティアが駆け寄ろうとして、足をもつれさせて転びそうになり、
シスターが慌てて支える。
ヴェラは、浅い呼吸の中で微かに目を開いた。
「……ほんと、めちゃくちゃね、あんた達……」
かすれた声でそう言って、再び瞼を閉じる。
ワーレンの白砂の街は、黒と赤の跡を無数に刻み込みながらも、
まだ辛うじて形を保っていた。
黒い霧は散り始めている。
だが、ドーレイの胸の奥には別の重さが沈んだままだ。
(セリナの気配を感じない……)
倒れかけた意識の中で、そのことだけは明確に感じ取った。
◇
そして遠く、帝都前線では。
グロービスが夜空を見上げ、低く呟く。
「……今、一つの災厄が砕けた」
プリシラが顔を上げる。
「タウロス、ですか?」
「タウロス以上の災厄だ。
ただ──“同じ匂い”が、もう一つの戦場にいる」
彼の視線の先には、砂漠の向こうにある港町。
黒霧の名残が、かすかな影となって揺れていた。
不死身の剣闘士と、砕かれた災厄。
利用された烏と、逃げ延びた大司祭。
そして、黒き三日月の紋章と、連れ去られたセリナ。
ドーレイ達を巻き込んだ“本当の戦争”は、まだ始まったばかりだ。
そう告げるように、夜風が静かに吹き抜けた




