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第88話 地獄門の看守、赤黒の一閃(前編)

 タルタロス・ウォーデンの咆哮が、夜空を震わせた。


 黒鉄の巨体がわずかに身じろぎするだけで、広場の空気が圧縮される。

 鎖に繋がれぶら下がる棺のような影が、一斉にきしみを上げた。

 その隙間から漏れるのは声とも音ともつかない、濁った呻き。


 ジャレドは地面に倒れたまま、乾いた笑いを漏らした。


「……さっきの以上のバケモンかよ……」


 ティアは膝を抱えたまま震え、シスターは白いローブを握りしめて歯を食いしばる。

 ヴェラは意識を手放し、肩だけが荒く上下していた。


 そのすべてを、赤黒いオーラが包み込むように覆っている。


 ドーレイは一歩前に出た。


 足の裏で、石畳が「めき」と鳴る。

 タルタロス・ウォーデンの圧が正面からぶつかり、それを押し返すかのように、彼のオーラがさらに濃くなっていく。


「……でけぇな」


 ぼそりと呟く。

 恐怖も驚愕もない。ただ、状況を確認するような声だった。


「二体分の核と、死体の山分の瘴気を固めた怪物。

 予定していた“王”には及びませんが……ほとんど同じくらいは暴れてくれるでしょう」


 ロズが穏やかに告げる。


「さぁ──踊ってみせなさい。奴隷の剣闘士よ」


 タルタロス・ウォーデンが動いた。


 それはもはや「走る」と呼べるものではない。

 重さを無視したかのような速度で、黒鉄の塊が一瞬で間合いを詰めた。


 鎖で繋がれた二本の黒刃が、交差するように振り下ろされる。


 ──ガァァンッ!!


 赤黒い火花が夜空へ散った。


 ドーレイは剣を横に構え、二本の刃をまとめて受け止めていた。

 足場の石畳がクモの巣状に割れ、その中心で彼だけが動かない。


(重さはさっきの比じゃねぇな……)


 押し合いながら、冷静に感触を確かめる。


 タルタロス・ウォーデンの鎧の内側から、無数の呻き声が重なり合って聞こえた。

 棺に繋がれた鎖が軋み、そのたびに周囲の瘴気が濃くなる。


 ロズの声が、遠くで響いた。


「いいですね……そのまま押し潰して構いません」


 タルタロス・ウォーデンの力が一段階増す。

 赤黒と漆黒の境界線が、じわじわとドーレイ側へ押し寄せてくる。


 ドーレイの左手の指輪が、かすかに脈打った。


 指先に、熱。


(……アルマの力だけじゃねぇ。この指輪……)


 深く息を吸い込む。

 肺に溜まった砂と血の味を無視し、腹の底でオーラを圧縮し直した。


「──悪いな」


 低く呟いた次の瞬間。


 赤黒いオーラが爆発した。


 タルタロス・ウォーデンの二本の刃が、一瞬だけ押し返される。

 巨体が半歩、後退した。


 その隙を、ドーレイは見逃さない。


 右足で砕けた石畳を蹴る。

 赤黒の残光を引きながら、斜め下から剣を叩き込んだ。


 ゴッ──!!


 黒鉄の装甲が、鈍い音とともにめくれ上がる。

 タウロス由来の骨格が剝き出しになり、そこに刻まれた呪刻が幾つか消し飛んだ。


 タルタロス・ウォーデンが低く唸る。


「……効くには効く、か」


 ドーレイは一歩引き、肩で息をしながらも冷静に分析した。


 ただ斬っただけでは駄目。

 内部の核──二つの核を、まとめて壊す必要がある。


(めんどくせぇな)


 心の底からそう思った。


 ◇


 一方その頃、帝都前線では。


「タウロスの気配が……途切れた……?」


 ミリアが額に汗を浮かべながら顔を上げた。


 戦場はなお混沌としている。

 タウロス・ネクラが消えたとはいえ、残ったアンデッドの群れと帝都防衛隊は互角の削り合いを続けていた。


「転移、ですか……?」

 プリシラが不安げに問う。


「おそらく」


 グロービスは短く答える。


 浮遊する三冊の魔導書は、一度に開いていたページを減らし、防衛重視の陣式へ切り替わっていた。


「敵主力が消えたのなら、本来は前へ出て押し切りたいところですが……」


 ブリュンヒルドが血に塗れた剣を振り、盾を構え直す。


「焦って陣形を崩せば、その瞬間に崩壊する。ここで踏ん張る」


 彼女は砂丘の向こうの闇を睨みつける。


「……嫌な胸騒ぎがする。

 タウロス・ネクラは、どこか別の“要”へ送られた」


 グロービスの眼差しもまた、遠い一点を捉えていた。


「戦いの匂いが……もう一つ、立ち上っている」


 ◇


 ワーレン。


 タルタロス・ウォーデンの反撃は、暴風のようだった。


 巨体がわずかに体勢を崩したその直後。

 背中の棺から、鎖が鞭のように伸びた。


 ドーレイは咄嗟に跳躍する。

 足もとを通り抜けた鎖が石畳をえぐり取り、その先で建物の壁をまとめて砕いた。


(鎖も全部、武器かよ)


 空中で体勢を入れ替えながら、舌打ちする。


 二本の黒刃が、今度は見上げる位置から振り下ろされる。


 避けても巻き込まれる。

 なら──


「割って入る」


 ドーレイは、自分から一歩踏み込んだ。


 赤黒いオーラが足場代わりに地面を強引に踏みつけ、

 タルタロス・ウォーデンの懐へ滑り込む。


 二本の黒刃がドーレイの肩口を深く切り裂き、そして尚も止まらず背後の建物を二つまとめて薙ぎ倒す。


 すれ違い様、ドーレイの剣がタルタロス・ウォーデンの脇腹を抉る。


 黒鉄が弾け、棺の一つが鎖ごと千切れて吹き飛んだ。


 棺が地面で転がり、蓋が半ば開く。

 中から、白い手と空洞の眼窩が一瞬だけ覗き──

 すぐに黒い霧となって消えた。


「……そういう仕組みかよ」


 ドーレイは小さく息を吐いた。


 棺ひとつ、鎖一本。

 そのすべてが、内部の核へ繋がる「通路」になっている。


 全部断ち切らなければ、本体には届かない。


 ロズが唇の端を持ち上げた。


「おや、看破しましたか。

 さすがは第五級災厄(アルガ=ミノタウロス)を殺った男」


「さて、ガマン比べと行きますか」


 ドーレイは鮮血が流れる肩を回した。

 冗談めかした物言いだが、眼は全く笑っていない。


 指輪が再び熱を帯びるのと同時に、内側から声が聞こえる。


〈……力が欲しいなら、喰わせろ〉


(……久しぶりにとびっきりのを喰らわせてやるよ)


 アルマとの対話、そして指輪の熱。

 ドーレイの血と痛みを糧に魔神の力が全身を駆け巡る。


 ──赤黒が膨張する。


 タルタロス・ウォーデンが再び咆哮した。


 今度は、鎖が四方八方へ散る。

 地面を、建物を、空を、あらゆる方向から黒鉄の鞭が襲いかかる。


「っ……!!」


 ティアが目を覆った。


 しかし次の瞬間、その鎖のいくつかが宙で止まり、赤に染まって弾け飛ぶ。


 赤黒い軌跡。


 全てを喰らいながら、赤黒が世界を染める。


 一閃ごとに、鎖が一本ずつ千切れて落ちていく。

 棺が次々とひしゃげ、地面に叩きつけられ、黒霧へ変わる。


 そのたびに、タルタロス・ウォーデンの動きがわずかに鈍る。


「まだだ」


 ドーレイは全ての攻撃を受けて傷だらけになりながら、自分に言い聞かせるように呟き、さらに斬撃の速度を上げていく。


〈……もっとだ、もっと喰わせろ〉


(言ったろ、とびっきりのを喰らわせてやるって)


 世界から音が消えた。


 赤黒いオーラだけが、夜の広場を焼き尽くすように走る。

 タルタロス・ウォーデンの背中の棺が、一本、また一本と吹き飛び、鎖が断たれていく。

 同時にドーレイのダメージも流す血の量も完全に人のそれを超えていた。


 ロズはその様子を見て、とうとう顔を歪めた。


「……馬鹿な。これ以上は、核に負荷がかかりすぎる」


 彼は法杖を握り直し、詠唱に入る。


「死者の門よ──一時閉ざせ。

 過負荷を避け、器を守れ」


 タルタロス・ウォーデンの周囲に、ぼやけた黒い膜が張られていく。


「はぁ……はぁ……!」


 ドーレイの呼吸が、初めて荒くなった。


 腕が重い。

 血を流し過ぎた。


(……まだ、足りねぇ)


 鎖の大半は断ち切った。

 棺も半分以上を破壊した。


 だが──


 タルタロス・ウォーデンの胸の奥で、二つ分の核がなお脈打っているのが分かる。


 そこだけが、今まで以上に濃く、重い。


(あそこを──一撃でぶち抜く)


 それ以外の手段が見えない。


 足元の石畳がふらついた。

 限界は近い。


 指輪の熱が増し、アルマが血を、痛みを喰らい続ける。

 赤い光が、皮膚の下を流れているかのようだった。


 ドーレイは血まみれの剣を握り直し、迫る決着に、ただ前だけを見据えた。

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