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第87話 赤黒の剣、二つの災厄が交わる時

 ワーレンの広場に、赤黒い光の奔流が渦を巻いていた。


 崩れた教会、折れた街灯、砕けた石畳。

 そこに立つひとりの男の周囲だけが、異様なほど鮮烈だった。


 ドーレイ。


 彼の全身から立ち上るオーラは、もはや単なる“闘気”ではない。

 血のように濃い赤と、闇のような黒が絡み合い、炎の逆流のように噴き上がっている。


 その足元で、ディスカリオンが大剣を構え直した。


 顔のない兜の奥で、赤い光が揺れる。

 漆黒の鎧は所々ひび割れているが、その一撃一撃はなお災厄級だった。


 ロズ・ネ=ズールは、その光景を呆然と見つめていた。


(……押されている……?

 ディスカリオンが……?)


 彼の計算ではありえないはずのことが、目の前で静かに進行している。


「来いよ」


 ドーレイは短く言った。

 挑発というより、ただ“次の一撃を許した”だけの言葉。


 ディスカリオンが地面を蹴る。


 轟音。


 漆黒の巨体が残像を引きながら突っ込み、棺桶ほどの大きさの大剣を振り下ろした。


 ──ガァァンッ!!


 受け止めた。


 ドーレイは片手で。


 その掌には、荒く刻まれた剣の柄。

 そこから赤黒いオーラが溢れ、ディスカリオンの瘴気を押し返している。


 衝撃で広場の瓦礫が宙に浮き、周囲の家屋の窓ガラスが一斉に砕け散った。


「っ……!」


 ティアが思わず悲鳴を飲み込む。


 ジャレドは地面に倒れたまま、目だけでそれを見ていた。

 戦士として、目の前で何が起きているのかを理解してしまう。


(あの化け物を……素手同然で止めてやがる……)


 ドーレイの左手が、ディスカリオンの大剣を押し返した。


「重いな。……でも、この前の牛鬼のほうがまだ分かりやすかった」


 不死身の剣闘士は、軽くそう呟くと、右の剣を横薙ぎに振るった。


 赤黒い残光が半月を描く。


 ディスカリオンの胸部装甲が、紙のように裂けた。

 黒い火花と共に、内部の骨格に走る呪刻が剥き出しになる。


 兜が僅かに揺れる。

 感情はないはずなのに、その動きには“怯み”としか思えない色があった。


「──下がってろ」


 ドーレイはそれだけ言うと、一歩踏み込んだ。


 足元で石畳が砕ける。


 突き出された赤黒の剣は、ディスカリオンの肩口から腹へと斜めに抜けた。


 巨体が吹き飛ぶ。


 ディスカリオンは広場の端まで転がり、建物の壁を二枚まとめて破壊して止まった。


「……ディスカリオンが……」


 ロズの喉が、かすれた。


「圧倒されている……? そんな……ことが……」


 その時だった。


 ドーレイの指に嵌められた黒銀の指輪が、かすかに赤く脈打った。


 本人は気づいていない。

 ただ、ほんの一瞬だけ、指先に熱を感じただけだ。


(……妙な熱だな)


 ちらりと視線を落とす。

 闇の中でも、赤い光だけがわずかに明滅していた。


「その指輪……」


 ロズの目が見開かれる。


「……まさか。貴様が……!」


 ドーレイは返事をしなかった。


 代わりにディスカリオンが立ち上がる。

 胸の亀裂から瘴気が溢れ、黒い火花が散る。


 巨体が吠え、再び突進してくる。


 しかし今度は——


 ドーレイは剣を斜めに構え、軽く跳ね上げただけだった。


 受け流されたディスカリオンの大剣が空を切り、その勢いのまま地面を割る。

 返す一撃が、黒い鎧の左腕を肩から叩き飛ばした。


 骨と鉄が混じった音が、夜気を裂く。


 ロズの背筋に冷たいものが走った。


(……異常だ。

 デスナイトの上位級をここまで一方的に……。

 この男は一体──)


「……邪魔だって言っただろ」


 ドーレイは低く呟き、もう一度踏み込んだ。


 赤黒い閃光が走る。


 ディスカリオンの巨体が、今度は完全に吹き飛んだ。

 兜が宙を舞い、身体がひしゃげるように崩れ落ちる。


 赤い光が、兜の奥から消えた。


 タールのように濃い瘴気が、その場に滞留する。


 ロズは思わず一歩後退した。


「馬鹿な……

 ディスカリオンが……これほどあっけなく……」


 完全な勝利。

 だが、その男の呼吸は乱れていない。

 オーラも、まだ底を見せていない。


(このままでは──“計画”が……)


 ロズは唇を噛み、右手の法杖を握り直した。


 ◇


 帝都バル=ゼルン──その手前に築かれた最終防衛線は、今まさに揺らぎつつあった。


 夜の砂丘を覆う黒い波。

 数百のアンデッドと、迎え撃つ帝都防衛隊二千名。


 火球が夜を裂き、光の矢が闇を貫く。

 剣と盾がぶつかる音、悲鳴、命令の叫びが入り混じる。


「前衛、押し返せ!!」

「後方は傷兵の搬送を優先!! シスター列は崩すな!」


 ブリュンヒルドが前線で盾を構え、兵たちを鼓舞する。

 重鎧の隙間からは幾筋もの血が流れているが、その瞳は一点も曇らない。


 その少し前方。

 巨大な影が、砂丘を踏み鳴らしていた。


 タウロス・ネクラ。


 アンデッド化したミノタウロスの巨体は、なお凄まじい威圧を放っている。

 黒く変質した角には呪刻が刻まれ、胸の中心で黒光りする核が脈打っていた。


「“第一書ルクス、第二章──拘束陣展開”」


 低い声が、砂煙の中で淡々と響く。


 グロービス。


 背に十字架の大剣を負い、その周囲には三冊の魔導書が浮遊している。

 ページが自動でめくれ、光の文字が宙に散っていく。


 砂丘の上に、光の鎖が張り巡らされた。


 タウロス・ネクラが吠え、足を踏み鳴らす。

 鎖が悲鳴を上げながらしなり、しかし巨体を完全には縛り切れない。


第二書ガルム、第三章──“切断槍”」


 浮遊する二冊目の魔導書が、血のような赤い光を放つ。

 タウロスの足もとから、鋭い光の槍が幾本も突き上がった。


 黒い血が飛び散る。

 タウロス・ネクラの脚に刻まれた呪刻がいくつか断ち切られた。


「グオォォォオオ!!」


 怒号。

 タウロスが両腕を振り下ろし、砂丘ごと防衛線を叩き潰さんとする。


「“第三書アエテル、防壁陣形──重ねろ”」


 最後の一冊が青白い光を帯び、グロービスの前方に重なり合う光壁を展開した。


 巨腕が光壁を叩きつける。

 音が消えた。


 衝撃波だけで周囲のアンデッドが吹き飛び、砂丘が崩れる。

 防衛隊の兵の何人かも膝をついた。


 それでも、光壁は割れない。


 セラが小さく息を吐く。


「以前に見た時より……強くなってる」


「……あの時は、一冊しか使ってなかったからね」


 ミリアが周囲の瘴気の流れを読むように目を細める。


「今回は本気ってわけね。でも──あのタウロスは、まだ本気じゃない」


 後方では、聖女プリシラが両手を胸の前で組み、じっと戦いを見つめていた。

 魔力の大半は砂丘の撤退戦で使い果たしている。

 今はただ、祈るしかできない。


「どうか……皆さまをお守りください……」


 戦線の最前と最後。

 祈りと剣が、薄い糸で繋がっているような戦場だった。


 ◇


 ワーレンの広場に、静寂が落ちていた。


 ディスカリオンの巨体は半ば崩れ、黒い瘴気だけが名残のように漂っている。


 ドーレイはその前に立っていた。


 息は乱れていない。

 額に僅かな汗が浮かんでいるだけだ。


「……こんなもんか」


 呟きは、聞く者がいなければただの独り言に終わっただろう。


 だがロズには、侮辱以外の何物でもなかった。


(あの指輪を扱える人間がいるはずはない……あの指輪は……)


 ロズの手が震えた。

 怒りではない。

 冷たい恐怖と、それ以上の興奮だ。


「……化け物め」


 自嘲のように呟く。


 そのとき──


 砂丘を震わせるような咆哮が、遠くから響いた。


 ロズが顔を上げる。


「……あちらも整ったようですね」


 タウロス・ネクラの胸に宿していた核が、ロズの感覚に微かに触れた。


「本来ならあちらへ合流したかったのですが……仕方ありませんね」


 彼は法杖を高く掲げた。


「“繋げ。死の線を。地と地を結ぶ黒き廊──”」


 通常ではありえない線を、無理やり開いた。


 帝都前線では、その瞬間がはっきりと見えた。


 タウロス・ネクラの胸部に、黒い円陣が浮かび上がる。

 まるで水面に穴が開くように、空間が歪み──


 巨体そのものが、そこへ吸い込まれて消えた。


「……転移!?」

 セラが叫ぶ。


「まさか、帝都の内部に──!」


「それはない」


 グロービスは即座に否定した。


「帝都は転移魔法による侵入を拒む術式で守られている。

 ならば──別の戦場だ」


 ミリアの顔色が悪くなる。


「別って……どこへ?」


 プリシラも不安そうに唇を噛む。


「一体……どこへ……?」


 ◇


 ワーレンの広場──ロズの背後。


 空間が捻じれるように黒く染まり、

 そこからタウロス・ネクラの巨体が吐き出された。


 着地の衝撃で石畳が崩れ、周囲の家屋の壁が剝がれ落ちる。


「グォォォォォオ!!」


 タウロス・ネクラが吠えた。

 全身に刻まれたアンデッド化の呪刻が赤黒く輝き、その胸の核が不穏に脈打っている。


「ふぅ……」


 ロズは深く息を吐いた。

 転移に相当な魔力を食われたらしく、額に汗がにじむ。


「予定外だが……貴様も“贄”としていただく」


 彼はタウロス・ネクラと、崩れたディスカリオンの残骸を見比べた。


「災厄の核は二つ。

 器も二つ。……さて、どこまで届くか」


 法杖を地面に突き立てる。


 黒い魔法陣が広場全体を覆った。


「“タルタロスよ──最奥の門を開け。

 死者と災厄の名をもつ魂、そのすべてを底に集え”」


 低く、しかしはっきりとした詠唱。


 ディスカリオンの胸から、黒い核が引き抜かれる。

 タウロス・ネクラの胸からも、同じように核が浮かび上がる。


 二つの黒球が宙で出会い、互いに拒むように激しく火花を散らした。


「や……ばいな……」

 ジャレドが、地面に倒れたまま呟く。


 ヴェラはうっすらと目を開け、その光景を見た。


 広場の端に散っていた骸骨兵たちが、一体、また一体と崩れていく。

 骨と鎧が黒砂になり、そのすべてが核へ吸い込まれていった。


 黒い球体は、徐々に肥大化していく。


 ロズの周囲の空気が重く沈み、音が消えた。


 ドーレイはその中心を見つめながら、静かに構えを変えた。


(……嫌な気配だな)


 赤黒いオーラが、指輪の光と共鳴し、わずかに強まる。


「“地獄窟の監視者──タルタロス・ウォーデン。

 今ここに顕現せよ”」


 ロズが名を与えた。


 黒球の表面に、ひびが走る。


 パァンッ──ッ!!


 破裂。


 そこから姿を現したのは、もはや“騎士”とも“獣”とも呼べない存在だった。


 全身を覆う黒鉄の装甲。

 しかしところどころ、タウロスを思わせる牛の骨格が覗いている。


 脚は獣のそれ、肩にはディスカリオンのような棘付きの装甲。

 背中には鎖と棺桶のような影が複数ぶら下がり、その内部からは断続的に呻き声が漏れていた。


 顔に相当する兜には、目がなかった。

 あるのは、深い穴のような闇と、その奥で渦巻く赤黒い光だけ。


 その一歩。


 ただそれだけで、地面が沈んだ。


 広場の瓦礫がふわりと浮き上がる。


「な、なに……あれ……」

 ティアの声が震える。


 シスターは唇を噛み締めたまま、一歩も動けなかった。


 ロズは満足そうに微笑む。


「タルタロス・ウォーデン。

 地獄の門を管理する看守にして、災厄二体分の核を宿した器……」


 彼はゆっくりとドーレイへ視線を移した。


「予定していた“王”を降臨させることは叶わなかったが、それに匹敵する圧倒的な力だ。

 さて……貴様は、抗えるかな?」


 タルタロス・ウォーデンが、ぎしぎしと軋みながら大剣を持ち上げる。

 その刃は一本ではない。

 タウロスの角を思わせる二本の黒刃が、鎖で繋がれて揺れている。


 ドーレイは一歩前に出た。


 赤黒いオーラが、さらに濃くなる。


「……そんなもん見せられてビビると思うのかよ」


 そして、口の端をわずかに上げた。


「上等だ。

 試してみようぜ──」


 剣を構える。

 夜空へ向けて、赤黒い尾を引く。


「どっちが先に壊れるかな」


 タルタロス・ウォーデンが咆哮した。

 闇と瘴気と圧力が、ワーレンの白砂の街をさらに塗り潰していく。


 その中心で、赤黒と漆黒の巨影が、静かに相対した。

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