第86話 赤黒の到来、崩れ行く白砂の救い
瓦礫が転がる広場に、冷たい夜気が沈み込んでいた。
視界の端が揺れ、耳鳴りが砂嵐のように世界を覆う。
地面に叩きつけられた衝撃で、肺の中身が絞り取られたまま戻らない。
(……く、そ!!)
ジャレドは震える腕で石畳を掴んだ。
血が滴り、指が折れているのではと思うほど痛む。
だが、それでも。
「……まだ……死んでねぇ……ッ」
膝をついたまま身体を持ち上げた。
視界の先では、漆黒の鎧を身につけた巨大な影──ディスカリオンが大剣をゆっくりと構えている。
その刃にはドス黒い瘴気がまとわりつき、触れるだけで魂が削れそうな圧があった。
ロズは冷淡にその光景を見つめる。
「驚きました。まだ立つとは……ではもう少し、削って差し上げましょう」
淡々と、殺意を告げる声。
瓦礫の影から、震える声が響いた。
「……ジャレドさんっ!」
ティアだった。
泣き腫らした目で、教会の崩れた入口から駆け出してくる。
「来るな……来るんじゃねぇ……!」
叫ぼうとしたが、喉が血に塞がれて声にならなかった。
そんな彼の横に、白いローブが並ぶ。
「……回復を。ここには……あなたしか!」
治癒と光魔法で魔力を削り切った若いシスターが、息を荒くしながらジャレドへ手をかざした。
「“ヒール”──!」
淡い光がジャレドの胸を包む。
裂けた皮膚が、一枚だけ繕われるように閉じる。
だがディスカリオンが歩くたび、大地が震える。
赤い燐光の瞳が、揺らぎなくこちらを見据えた。
「……あの二人も……生きています。
だから……あなたも倒れないで……!」
「……まだ……やってやる!」
ジャレドは血に濡れた剣を拾い上げた。
赤銅色のオーラを刃に叩き込む。だが──
ストン、と。
ディスカリオンの残像が目の前に降り立った。
「ッ──は……!」
大剣が横一線に薙がれる。
風圧だけで視界が歪む。
「ぐ……ッ!!」
丸盾を構える。
赤銅のオーラを上乗せし、腕へ固定したその瞬間──
──轟音。
盾は粉々に砕け散った。
「がっ……ああああッ!!」
左腕のアームガードで衝撃を受け止める。
金属が悲鳴を上げ、骨にまで届く衝撃が走る。
アームガードがひしゃげ、破片が散った。
(く……そ……折れる……!!)
ジャレドの身体は後方へ吹き飛び、石壁に叩きつけられた。
「ジャレドさぁん!!」
ティアの悲鳴。
視界が揺れる。
ロズの声が、氷のように冷たい。
「あなたも──非常に上質な“贄”になりそうです。
ディスカリオン、壊して構いませんよ」
大剣が、ゆっくりと持ち上がる。
黒赤い瘴気が刃に収束していく。
ジャレドはもう防御姿勢すら取れなかった。
(……ここまでか……?
あの坊主の時もそうだった……
結局誰も守れねぇのか……)
ティアが震える声で叫ぶ。
「誰か……誰か……!!
誰か、助けて……!!」
刃が振り下ろされる瞬間──
その横、崩れた建物の影で、
ゆらりと影が立ち上がった。
ギルド職員二人が運ぼうとしていた布が、ずるりと捲れ落ちる。
「──ヴェラさん!? まだ動いちゃ──!」
「……どきなさい」
ヴェラが立っていた。
血に濡れ、足元はふらついている。
だがその瞳だけは、刺すように鋭い。
そして、へたり込んだジャレドの前へ、よろめきながらも一歩出た。
「……みんなを巻き込んだのは……私よ」
震える手で、鎖の痕が残る腕を前にかざす。
オーラはうまく練れない。
それでも、小さな紅の光が指先に灯った。
「……やれることは……全部やる……!」
「何やってんだ……!」
ジャレドの叫びはもう届かない。
ディスカリオンの影が覆いかぶさり、
その刃がヴェラへ向けて振り下ろされた瞬間──
世界が赤黒く染まった。
吹き荒れる砂と瓦礫が浮き上がり、
ディスカリオンの巨剣が横へ弾かれた。
──ギィィィインッ!!
鋼を裂く金属音。
ジャレドの視界に、赤黒い残光が落ちる。
ゆらり。
崩れた教会の残骸の上に、ひとりの男が立っていた。
黒い髪が黒霧と血煙の風に揺れる。
その周囲の瘴気が、全身の赤黒いオーラに触れた瞬間、霧散していく。
闇を裂いた声が、低く響いた。
「……間に合った、か」
ティアは膝から崩れ落ちそうになりながら目を見開く。
「あの人は……!」
「毎度毎度遅ぇんだよ……不死身」
ジャレドがその場に崩れ、倒れ込む。
ヴェラもドーレイの姿を確認し、崩れ落ちる。
ドーレイはジャレド、ヴェラそしてエルガを確認する。
「みんな何とか無事か。セリナは……いないのか?」
地面に突き刺さったディスカリオンの大剣を、片手で押し返す。
「──ひとまず、あれを片付けるか」
赤黒いオーラが、爆ぜた。




