第85話 赤銅の防壁、黒霧の侵蝕
教会の床石が、男ふたりの殺気を受けて軋んでいた。
黒霧をまとったナザールが、教会奥へ繋がる扉をちらりと見たあとジャレドに向き直る。
「テメェ……また邪魔しやがるのか!」
その顔はもう、人間のそれではなかった。
黒い血管のような紋がこめかみに浮き上がり、濁った眼球がジャレドを射抜く。
ジャレドは片手剣を肩に構え、左の丸盾をわずかに傾けた。
「……今度こそぶち殺す」
低く噛みつくような声だった。
「上等だァァァッ!!」
灰黒の霧と、赤銅のオーラが──正面から激突した。
──ガッッ!!
衝撃波が教会の内部を吹き抜け、
壁にかけられた古い聖画が一斉に外れ、床に落ちて砕ける。
ステンドグラスが鳴り、天井の梁が悲鳴をあげた。
「ひっ……!」「な、何だ、この揺れ……!」
奥の部屋で補助に入っていたギルド職員が、思わず腰を抜かして叫ぶ。
「シスター!! ここは危険です、避難を──!」
治療にあたっていた若いシスターは、焦りを見せず、静かに頷いた。
両の掌をエルガとヴェラへ向け、短く呪文を紡ぐ。
「“リジェネレーション(持続回復)”──」
淡い光が二人の身体に宿り、赤黒い血が少しずつ薄まっていく。
「搬送します。裏口へ……急いで」
「了解!」
職員二人が、まだ昏睡状態のエルガとヴェラを布ごと担ぎ上げ、
教会裏の避難導線へ走り出した。
その直後──
「逃がすかよォッ!!」
ナザールが壁を蹴り、教会中央を斜めに走る。
黒霧が蛇のように床を這い、裏口へ向かおうとする。
「させるかよ!!」
ジャレドが左足で石床を踏み砕き、
赤銅色の残光を引きながら前へ飛び込んだ。
片手剣が弧を描き、灰黒の霧を裂く。
──ギィンッ!!!
ナザールの黒刃と、ジャレドの片手剣が噛み合う。
衝撃で祭壇の燭台が一斉に吹き飛び、炎が床を転げた。
「チッ……てめぇ、意外にやるじゃねぇか」
「どの口が言ってんだ、黒目。
テメェみてぇな下衆を見ると、手加減する気が一切起きねぇんだよ」
「ハハァッ!! 調子に乗れよォ!!」
ナザールの腕から黒い瘴気が立ち昇り、刃を形造る。
それだけで教会の空気が一段冷え、床の石に黒いひびが走った。
「っ……オーラが……濁ってる……!?」
ティアが顔をしかめ、後ずさる。
「離れてろ! こいつの霧は吸うだけで体力削られるぞ!!」
ジャレドが怒鳴りながら盾を前に突き出し、
ナザールの突進を受け止めた。
──ドガァァッ!!
丸盾がきしみ、教会の柱が震える。
ナザールがにやりと笑った。
「どけよォ……そいつらが死ぬとこを、間近で眺めたいんだよォ……!」
「悪趣味な願望だな」
ジャレドは唇を歪めた。
「──だったら、ここで俺が止めてやるよ」
赤銅色のオーラが、盾と剣を包むように立ち昇る。
教会の中に、風が巻き起こった。
「来いよ、黒目。
今度は逃がさねぇ。
ここで──終わらせる!!」
ジャレドとナザール、
二つの異形のオーラが、教会の中心でぶつかり合った。
◇
街はすでに戦場になっていた。
瓦礫に崩れた家々。
泣き叫ぶ住民。
路地の影から這い出す骸骨兵の群れ。
避難誘導の冒険者が声を枯らしながら叫ぶ。
「教会の周りを囲まれるぞ!!」
「離れろ! 霧を吸うな!!」
運び出されたエルガとヴェラを担ぐギルド職員たちは、
骸骨兵をかわしつつ裏路地へ走り込んだ。
「くそっ……増えすぎだろ……!」
「はぁっ……はぁ……! シスター、もう無理です!!」
外へ出た瞬間、骸骨兵の影が一斉に彼らへ迫る。
──その時。
教会の壁が爆音とともに砕け飛んだ。
白い粉塵の中から現れたのは、
絡み合う赤銅と黒霧の奔流。
「どけ!!」
ジャレドの怒号が響き、
ナザールの黒刃が目の前を横薙ぎに走る。
二人は戦闘の勢いのまま、
教会の外──シスターたちのいる広場へと飛び出してきた。
「しっ……しまった!!」
ギルド職員の叫びをかき消すように、
骸骨兵が四方から躍りかかる。
シスターの頬に汗が伝う。
「……逃げません。
ここで倒れるわけには……!」
治癒術で大量の魔力を消耗しているにも関わらず、
シスターは震える指で聖印を描いた。
「光よ……闇を払え──
“ホーリーライト”!!」
眩い白光が爆ぜ、
周囲の骸骨兵が十数体、黒砂になって吹き飛んだ。
「ぐぁっ……!!」
ナザールの腕にも、
白い焼け跡のような亀裂が走った。
「このアマァァァア!!」
ナザールがシスターに向けて突進する。
「させるか、てめぇ!!」
ジャレドが身体を捻り、
片手剣を盾のように前へ叩きつけた。
黒と赤銅がぶつかり──
再び周囲に衝撃が走る。
「逃げ続けられると思うなよォ!!」
「逃げてんのはお前の方だろ!!」
互角の押し合いが数秒。
だがその最中、
戦場の空気が──急激に“冷えた”。
骸骨兵たちの動きがぴたりと止まる。
黒霧の密度が、ひと呼吸で二段階深まる。
ジャレドが、
ナザールでさえ、気づいた瞬間には背筋が凍っていた。
「……“いました”か」
静かな男の声が、
瓦礫と死臭の漂う広場に落ちる。
黒い法衣の裾を揺らしながら、
大司祭ロズがゆっくりと姿を現した。
その背後にはデスナイト。
そして数十体の骸骨兵の軍勢。
ロズの瞳は、泥沼のように濁った深い黒。
「そろそろ“核”を返してもらいますよ」
「……は?」
ナザールが振り返った瞬間──
ロズの姿がかき消えた。
次に現れたのは、ナザールの背後。
「な──」
「これで、足りるでしょう」
ロズの指がナザールの胸を貫いていた。
黒い血とともに、
心臓の位置から黒い球体がずるりと引き抜かれる。
「がっ……はっ……!?」
ナザールの身体が崩れ落ちる。
「安心しなさい。すぐ“使って差し上げます”」
ロズは黒球を指先で弄んだあと、
デスナイトと周囲の骸骨兵へ視線を向けた。
「──贄としては上等だ」
黒球が空中で砕け散る。
黒霧が渦を巻き、
周りにいた複数の骸骨兵、さらにはデスナイト、そしてナザールの瘴気までもが
一点へ吸い込まれていく。
重い足音が大地を震わせた。
ロズの背後の霧から──
巨大な影が姿を現す。
全身が黒い装甲に覆われ、
顔のない兜の奥で赤い光が燃えている。
手には棺桶ほどの大きさの魔剣。
「名を与えましょう。
“ディスカリオン”。」
デスナイトを遥かに上回る高位アンデッド。
地面がひび割れ、
周囲の瓦礫が空気の圧で吹き飛ぶ。
「……嘘、でしょ……こんなの……!」
シスターの足が震える。
ジャレドでさえ、汗が首筋を流れ落ちた。
「やべぇな……あれは正面から勝てる相手じゃねぇぞ……!」
「さて、帝都に向かっているあれと合わせれば、当初の予定通り呼び出せそうですね。」
ロズの声は穏やかで、
まるで儀式の進行をする聖職者のようだった。
「まずは──舞台を整えましょうか」
ディスカリオンが大剣を振り上げた瞬間、
空気が圧縮され、広場全体が軋む。
「ぐっ……がはっ!!」
ジャレドは盾を構えたが、
ただの“風圧”だけで地面を滑らされる。
(くそっ……! 桁が違う……!)
シスターたちを守らねばならない。
しかし殴り合えば勝ち目がない。
ロズは楽しげに目を細める。
「抗いなさい。
その命が尽きるまで」
ディスカリオンの大剣が振り下ろされる。
ジャレドの視界が白く弾け──
次の瞬間、
彼の身体は地面へ叩きつけられていた。
肺の空気が全て抜ける。
血が喉へ逆流し、世界が揺れる。
(……負ける……このままじゃ……)
遠くで、シスターの悲鳴と、
瓦礫が落ちる音がかすかに響いた。
赤銅のオーラが、かすかに揺らぐ。
──ジャレドの膝が、とうとう地に落ちた。




