第84話 死の波動、堕ちゆく白砂の港町
みなさま、大変お待たせいたしました!
いつも本当にありがとうございます。
ワーレン港に漂っていた潮の匂いは──
いま、黒く腐った死臭に塗り潰されつつあった。
海風は重たく淀み、吹き抜けるたびに粉じんのような黒い霧が舞う。
波が砕ける音でさえ、骸骨兵たちの軋む骨と、人々の悲鳴に押し流されていた。
崩れた桟橋の上、黒い法衣の男がひとり立つ。
大司祭ロズ・ネ=ズール。
足元には、さきほどまで生きていた漁師や荷役たちが倒れていた。
血はすでに黒く乾き、その肉は瘴気に溶かされるように崩れていく。
「ふむ……悪くない素材だ。
この街はやはり“儀式の土地”として優秀だな」
ロズが静かに囁くたび、黒い霧が倒れた人間を包み込む。
肉が砂のように剝がれ落ち、
白い骨が、ぎしり、と音を立てて立ち上がった。
空洞の眼窩に、青白い光が灯る。
「立て。死者よ。
まだ働いてもらうぞ」
港路の街灯がひとつ、またひとつと黒く染まり、
そこから伸びる影が骸骨兵たちの足元へ絡みついていった。
◇
──ワーレン・港門外。
巨大な石造りの港門はまだ破られていない。
しかし、そのすぐ外側は、すでに地獄だった。
黒霧の向こうには、びっしりと詰まった骸骨兵の群れ。
瓦礫の間には、倒れた住民たちの影が点々と転がり、そのいくつかはゆっくりと起き上がりつつある。
「前衛は盾を構えろ! 門の内側から押し出されるな!!」
「弓隊・魔法隊、上から援護!!」
港門の上部と、そのすぐ内側に、
ワーレン冒険者ギルドが編成した第一討伐隊と、
常駐の帝国兵二百名が“待ち構える形”で防衛線を敷いていた。
門の内側にはまだアンデッドは侵入していない。
だが、門の外では骸骨兵が押し寄せ、石扉を打ち鳴らす音が絶えない。
「光よ……闇を退けて……っ、“ホーリーアロー”!」
門上の櫓から、白いローブのシスターが震える声で呪文を紡いだ。
放たれた光の矢が数体の骸骨兵を貫き、黒霧ごと弾き飛ばす。
しかしすぐに、その隙間を埋めるように別の骸骨兵が前へ出てくる。
「駄目だ……! 焼け石に水だ!!」
「数が減らねぇ……!」
後ろからは冒険者たちの火球や風刃が門外へ飛び、
門を挟んだ“間接戦”が続いていた。
門の外側、そのさらに少し奥。
砕けた石段の上で、ロズが黒い法杖を掲げている。
「ワーレンそのものに興味はない。
だが──“死の軍団”を整えるには、ここほど手頃な生贄の箱庭もない」
ロズの足元では、新たに倒れた冒険者の身体が黒く泡立ち、
骨だけになって起き上がっていく。
そのすぐ横では、黒い霧をまとった男が四つ足で駆けるように瓦礫を渡っていた。
ナザール。
「エルガァァァ……!
どこだァ……どこにいる!!」
狂気の笑い声が、黒霧の中で木霊する。
「すでに正気を失いつつあるな。時が来たら核は返してもらうぞ」
ロズが視線を向けることなく告げる。
「エルガァァア!」
ナザールは黒い影となって、街へと繋がる別の道を探しに消えた。
◇
──海岸線・黒霧の境界。
断崖の影から砂浜に出たところで、
ドーレイとマルナが足を止めた。
「ドーレイ、見て……!」
マルナが指差した。
砂浜の向こう、海に突き出す港町ワーレン──その上空に、黒い霧が覆いかぶさっている。
夕陽はまだ沈みきっていないはずなのに、
街の一帯だけが、まるで夜のように暗い。
「あれ、完全にマズい奴だろ……」
ドーレイは額に手を当て、息を吐いた。
「やっと人のいる街が見えたと思ったら、これかよ」
「愚痴はあとで聞いてあげる。
行くわよ、ドーレイ。あの霧、嫌な予感しかしない」
「わかってるさ。……走るぞ!」
二人は砂地を蹴り、
黒霧に覆われた港町へ向けて駆け出した。
◇
──港門前・黒い儀式。
ロズがゆっくりと法杖を上げると、
彼の周囲に散っていた骸骨兵たちが足を止めた。
「さて……少し“質”を上げるとしようか」
黒い霧が一点に集まり、
ロズの頭上に黒い球体が浮かび上がる。
その表面には、無数の人影が歪んで映っていた。
苦悶する顔、叫ぶ顔、泣き崩れる顔──それが波紋のように揺れている。
「核をひとつに。
骸魄を捧げよ」
ロズが静かに呟くと、骸骨兵たちが一体、また一体と崩れ、黒砂になって球体へ吸い込まれていく。
「な、なんだ……あれ……!?
骸骨兵が、消えていく……!」
門上から見下ろしていた兵士が悲鳴を上げた。
「違う……消えてるんじゃない。
“集まってる”……!」
黒球体はじわりと膨れ、
やがて表面に深いひびが走った。
パァンッ!!
爆ぜるような音とともに、
黒い霧が弾け飛ぶ。
その中心から、重い足音を響かせて現れたのは──
漆黒の鎧に身を包み、
真紅の炎のような瞳を持つ剣士。
握られた大剣から、黒い瘴気が滴っている。
「デ、デスナイト……!?」
門上の兵士が絶叫した。
「なんでこんな場所に、あんな高位のアンデッドが……!」
ロズが、満足そうに口元だけで笑う。
「試作品としては上等だ。
行け、“デスナイト”。門を砕け」
デスナイトが、重く、しかし瞬きするほどの速さで港門へ突進する。
ズドォォォン!!
石造りの巨大な門が、一撃で深くひび割れた。
門の内側へ、砂と破片が雪崩れ込む。
「も、もう一度だと……!?」
デスナイトは構えを崩さず、
今度は肩から全体重を乗せて突っ込んだ。
ガァァァン!!
耳をつんざく音とともに、港門が粉々に砕け散る。
「門が……っ!!」
「防衛線を組み直せ!! 前衛、後退しながら迎撃!!」
即座に指示が飛ぶが──
砕けた門の向こう側から、黒い波が雪崩れ込んできた。
骸骨兵の群れ。
さきほどまで人だった者たちが、同じ顔で口を開いている。
門の“外”で耐えていた戦いは──
ついに、街の“内側”へと崩れ落ちた。
冒険者と帝国兵が入り乱れ、
ワーレンの石畳は、瞬く間に血と骨で覆われていく。
◇
──ワーレン教会・礼拝堂奥。
高い天井の聖堂には、外の喧噪が遠く響いていた。
ステンドグラスから差し込む光は、外の黒霧に遮られて色を失いかけている。
「こちらへ! 運んでください!」
ギルドの搬送隊に連れられ、
エルガとヴェラが奥の部屋へ運ばれてきた。
白いシーツの上に並べられた二人は、
どちらも血の気を失い、死者のように静かだ。
「この街で最も高位の治癒士です。頼みます!」
ギルド職員の叫びに、
歳若いが眼差しの強いシスターが頷いた。
「わかりました。時間がありません。
……二人同時に、やります」
彼女は両手を広げ、二人の胸元へかざした。
「光よ、折れし命脈を繋ぎ直し──
“デュアル・ヒール”」
柔らかな光が床いっぱいに広がり、
礼拝堂の空気そのものが温まるような感覚が走る。
だが、エルガの腹部の傷からは黒い瘴気がじわじわと滲み続けていた。
「……ひどい。
呪いと毒、それに外傷が混ざってる……!」
シスターは歯を噛みしめ、さらに魔力を注ぎ込む。
マリアはヴェラの手をぎゅっと握りしめた。
「ジャレドさんに託されたんです……あの人の仲間の命を」
「大丈夫、必ず助けます。
ですが──私もすぐ外の戦いに出なければなりません」
シスターは息を切らしながらも、
光を弱めようとしない。
「だから、それまでに……少しでも、この子たちを、“生きられる状態”に戻しておかないと」
外から、鐘の音と悲鳴が重なる。
ワーレンが崩れていく音だった。
◇
──ワーレン外周・海岸沿い。
ジャレドは荒い息を吐きながら、
波打ち際に膝をついた。
全身は海水と血と黒い霧の残滓でべっとりと濡れている。
「……はぁ……はぁっ……
あのクソども、本気で街ごと潰す気かよ」
港から少し離れた海岸に、
彼はなんとか泳ぎ着いていた。
そこから見えるワーレンの港側は、黒い霧と炎に覆われている。
(正面から戻るのは無理だな……
なら、街の外側を回り込むしかねぇ)
ジャレドは歯を噛みしめ、
砂浜から岩場へ、岩場から斜面へと走り出した。
海風の中、遠くから聞こえる鐘の音。
そして、人々の悲鳴。
(エルガ……ヴェラ……
お前ら、死ぬなよ……)
やがて、港とは反対側の街の裏門が見えてきた。
こちら側には黒霧は届いておらず、住民たちが街の外へ向けて避難の列を作り始めている。
「開けてくれ! 外に出せ!!」
門は、港門とは違い、まだ無事だった。
ジャレドは列の脇をすり抜けるように走り抜け、
裏門からワーレン市街へ飛び込む。
街の中は混乱しているが、
まだアンデッドは届いていない。
(まずはギルドだ……情報と、エルガたちの位置取りだ)
ジャレドは石畳を蹴り、ギルドの看板を目指した。
◇
──ワーレン冒険者ギルド。
中はすでに、戦場の指揮所のようになっていた。
「住民の避難誘導は第二隊に任せろ!」
「第一隊、倉庫街側へ回り込め!!」
「第三隊は教会とギルド前で防衛陣を敷け!」
怒号と足音が飛び交う中、
ジャレドが扉を蹴るようにして飛び込んだ。
「ここに冒険者三人と、重症を負った男女が運ばれてるはずだ!
どこだ!!」
受付の男が振り返り、息を呑んだ。
「あなたは……その首輪……!
二人なら教会です! 治療を受けています!!」
「そうか……! 助かった!」
「それより、あなたも戦えるなら──
港側の防衛戦に加わってくれませんか!」
「あとでだ! まずは、あいつらの生存確認だ!!
武器を貸せ! なんでもいい!!」
「こ、これを!」
手渡されたのは、
よく磨かれた片手剣と円盾だった。
「上等だ!!」
ジャレドは剣を握りしめると、
教会の方向へ迷いなく駆け出した。
◇
──ワーレン教会・入口。
その扉の前で、黒い霧がゆらりと揺れた。
ナザールだ。
エルガに刻み込んだ瘴気の“匂い”を辿りながら、
教会の建物へたどり着いていた。
「……ここか。
いい場所じゃねぇか。命の価値を説く建物で、命を壊すってのも悪くねぇ」
黒い笑みを浮かべながら、
ナザールはゆっくりと扉へ手をかけた。
重い木扉が、嫌な音を立てて開く。
中では、レアン、マリア、ティアの三人が
慣れない武器を構えて立ち塞がっていた。
「な、なんでここが……」
「近づかないで!これ以上、中には──」
「お前らか。
まぁいいや。邪魔な雑魚は、ついでに壊す」
ナザールの姿が、黒霧とともににじむ。
次の瞬間、レアンの身体が床を滑った。
「がっ──!? うあああっ!!」
目にも止まらぬ一撃で、レアンが吹き飛び、
背中から壁に叩きつけられる。
「レアン!!」
マリアが盾を構え、防御の体制を取る。
「雑魚がよ」
ナザールの残像が揺れ、
黒い靴がマリアの腹を蹴り上げた。
「きゃあっ!!」
マリアの身体が祭壇の脇まで転がる。
ティアは杖を構え、詠唱をしようとするも手が震え、完全に戦意を喪失してしまった。
「ひ……っ」
「怯える顔は、見飽きねぇなぁ」
ナザールが一歩、また一歩と近づく。
黒霧が床を這い、教会の白い壁を黒く汚していく。
「さて……続きといこうか。
エルガを殺す前に、邪魔な虫を全部潰しておくか」
黒い刃が横薙ぎに振り上げられ──
「どけぇッ!!」
轟音と共に、教会の扉が弾け飛んだ。
外光と砂埃を背負い、
乱れた髪、借り物の剣と盾を手にした男が飛び込んでくる。
「ジャレドさん……!」
マリアがかすれた声で呼んだ。
ジャレドは疲労の色を隠しもしない顔で、
しかし、目だけは鋭くナザールを射抜いた。
「黒目野郎……。
今度こそてめぇを地獄に送ってやるよ」
赤銅のオーラが、教会の中で弾けた。




