表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/90

第78話 雨の街、失われた灯火(後編)

 雨音は、あの日のほうがずっと激しかった。


 ソエルの空は鉛色で、街全体が濡れた布の中に押し込められたように重く沈んでいた。


 エルガに「見つかった」と告げられたあの瞬間から、胸の奥に冷たい穴が開いたみたいに、呼吸が浅くなる。


 でも――泣いている暇なんて、なかった。


* * *


 私たちは雨の坂道を駆け下りた。


 靴はすぐに泥だらけになり、裾も濡れて肌に張りつく。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。


「……こっちだ」


 エルガは泥の上に残る足跡を見ながら、迷いなく進む。


 私もその後を追う。


 雨音しか聞こえない街外れ。

 人気のない倉庫の並ぶ一角。

 そのうちのひとつ――木扉が半分開いていた。


 胸が、嫌な鼓動を打つ。


「……姉さん……?」


 思わず零れた声は、雨にすぐ掻き消された。


 エルガは扉に手をかけ、ゆっくり押し開けた。


 湿った木の匂いと、古い油。

 それに――かすかに、鉄の匂い。


 薄暗い倉庫の中に、細い光が差し込んでいた。


 そして、その光の先に――姉がいた。


* * *


「っ……」


 胸の奥が、ちぎれるように痛んだ。


 姉は床に横たわっていた。

 衣服は濡れ、破れ、肌には痣や引きずられた跡がついている。


 でも、顔だけは穏やかだった。

 まるで、眠っているだけみたいに。


 違う。

 起きない。

 二度と息をしてくれない。


 理解してしまった瞬間、膝が崩れそうになった。


 その肩を、エルガの手が支えた。


 強いけれど、震えていた。


「……姉さん……」


 声が、掠れて出ない。


 涙が出ないのは、現実が信じられなかったからだ。


 エルガは姉の傍らに膝をつき、そっと髪を整えた。

 乾きかけた血と土で固まった髪が、ざり、と音を立てる。


「……守れなかった」


 低く、小さな声だった。


 その背中を見つめていると、胸の奥で何かが折れそうになる。


(エルガのせいじゃない……悪いのは……)


 そのとき。


「やっと来たかよ」


 闇の奥から声が響いた。


* * *


 黒い外套をまとった男が歩み出てきた。


 鋭い目だけが笑っている。

 灰色のオーラが、男の周囲に薄く揺れている。


 ナザール。


 忘れようとしても忘れられない顔。


「俺たち烏から逃れるとでも思ったのか?組織の秘密を知ったお前をむざむざ逃すわけないだろ。お前の関係者は皆殺しだ、エルガ」


 喉の奥が、音もなく凍りついた。


「……」


 エルガは何も言わない。


 けれどその背中から、白いオーラがわずかに漏れ出している。

 呼吸とともに、静かに、しかし確実に膨れ上がっていく。


(怒ってる……? 違う……)


 怒りなんかじゃ足りない。

 もっと深い、もっと冷たい――凍るほどの感情だ。


 ナザールは剣を抜いた。

 灰色のオーラが刃の周りで歪んでいる。


「裏稼業に顔出しもしねぇ半端者が……そっちの女も先に殺してもっと苦しませてやるよ」


 ぞわり、と背筋が粟立つ。


(私を……?)


 エルガが一歩前に出た。


 盾を構え、剣を握りしめ、私とナザールの間に立つ。


「……貴様は俺が殺す」


 たった一言。

 それだけで倉庫の空気が震えた。


* * *


 次の瞬間、二人はぶつかり合った。


 金属が擦れる音。

 オーラが軋む音。

 空気が弾けるような圧。


 私は数歩下がって壁際へ移動した。

 巻き込まれれば、死ぬ。


 でも目は逸らせなかった。


 灰色の斬撃が何度も閃き、

 白い盾がそれを逸らし、

 剣が交差するたびに火花が散った。


 ナザールの攻撃は速い。

 殺意そのもの。


 けれど、エルガは――それを全部見切っていた。


(……こんなに強かったの?)


「チッ……!」


 ナザールの舌打ちが聞こえた。


 灰色のオーラが揺らぎ始める。

 焦っているのが、動きで分かった。


 エルガは、静かに追い詰めていた。


(……すごい)


 灰色の刃が横薙ぎに飛ぶ。

 エルガは盾を傾けて受け流す。

 刃が滑り、ナザールの体勢が崩れる。


「なっ……!」


 その一瞬。


 白い閃光が走った。


 エルガが盾で殴りつける。

 打撃の音が倉庫いっぱいに響き、

 ナザールの身体が宙に浮いて木箱へ叩きつけられた。


「がっ――は……!」


 血が飛び散る。


 私は思わず口元を押えた。


(終わった……?)


 ナザールはふらつきながら立とうとする。


 だが、エルガは動かない。

 呼吸すら乱していない。


「……調子に乗るなよ……っ!!」


 ナザールが叫んで突進してきた。


 灰色の軌跡が幾筋にも見えるほど速い。

 倉庫の埃が舞い上がり、床板が軋む。


 私は壁際で息を呑んだ。


(エルガ……!)


 白と灰がぶつかる。


 少しの沈黙。


 次の瞬間――灰が砕け散った。


 ナザールの剣が根元から折れ、

 白い光が彼の胸を貫いた。


 轟音が遅れて響いた。


 ナザールの体は壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。


* * *


 エルガはしばらく動かなかった。


 白いオーラがゆっくりしぼんでいく。

 肩がほんの少しだけ揺れていた。


「エルガ……」


 私はそっと近づく。


 彼は姉の傍らへ戻り、冷たくなった頬に触れた。


「……守れなかった」


 その言葉は、雨より冷たかった。


 私は姉の手を握り、涙がようやく落ちてきた。


「エルガのせいじゃない……悪いのは……この組織よ……」


 悔しくて、悔しくてたまらない。


 エルガはゆっくりと立ち上がった。


 白いオーラは完全に消え、ただ空っぽな背中だけがそこにあった。


「……終わっていない」


 静かに言った。


「ナザールは……その一部にすぎない。

 イーブルアイは、まだ残っている」


 握り締められた拳が、白くなる。


 その背中は、悲しみよりも――怒りよりも――

 もっと深い決意で満ちていた。


* * *


(……なのに)


 私は現在へ意識を戻した。


 冷たい牢屋の石壁。

 揺れる松明の光。

 鎖の重さ。


(あのとき、確かに死んでた……はずなのに)

(息なんてしてなかった……!)


 ナザールは、生きていた。


 そしてまた――姉を奪ったときと同じ笑顔で、私を見下ろしていた。


「相変わらず……クソみたいな組織ね。イーブルアイ」


 小さく呟く。


(でも、今回は違う)


 あれからゼルハラに至るまで、色々なことがあった。


 エルガは以前より、もっと強くなった。

 私も、ただ何もできず震えていた昔の私じゃない。


(あんたたちの闇ごと、全部終わらせる)


 遠くで波の音がする。


 港町ワーレンへ向かう白金の影――

 ジャレド、エルガ、マリアたち。


 その姿を思い浮かべると、胸の奥で小さく火が灯った。


(復讐は、まだ終わっていない)


 私は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ