第78話 雨の街、失われた灯火(後編)
雨音は、あの日のほうがずっと激しかった。
ソエルの空は鉛色で、街全体が濡れた布の中に押し込められたように重く沈んでいた。
エルガに「見つかった」と告げられたあの瞬間から、胸の奥に冷たい穴が開いたみたいに、呼吸が浅くなる。
でも――泣いている暇なんて、なかった。
* * *
私たちは雨の坂道を駆け下りた。
靴はすぐに泥だらけになり、裾も濡れて肌に張りつく。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
「……こっちだ」
エルガは泥の上に残る足跡を見ながら、迷いなく進む。
私もその後を追う。
雨音しか聞こえない街外れ。
人気のない倉庫の並ぶ一角。
そのうちのひとつ――木扉が半分開いていた。
胸が、嫌な鼓動を打つ。
「……姉さん……?」
思わず零れた声は、雨にすぐ掻き消された。
エルガは扉に手をかけ、ゆっくり押し開けた。
湿った木の匂いと、古い油。
それに――かすかに、鉄の匂い。
薄暗い倉庫の中に、細い光が差し込んでいた。
そして、その光の先に――姉がいた。
* * *
「っ……」
胸の奥が、ちぎれるように痛んだ。
姉は床に横たわっていた。
衣服は濡れ、破れ、肌には痣や引きずられた跡がついている。
でも、顔だけは穏やかだった。
まるで、眠っているだけみたいに。
違う。
起きない。
二度と息をしてくれない。
理解してしまった瞬間、膝が崩れそうになった。
その肩を、エルガの手が支えた。
強いけれど、震えていた。
「……姉さん……」
声が、掠れて出ない。
涙が出ないのは、現実が信じられなかったからだ。
エルガは姉の傍らに膝をつき、そっと髪を整えた。
乾きかけた血と土で固まった髪が、ざり、と音を立てる。
「……守れなかった」
低く、小さな声だった。
その背中を見つめていると、胸の奥で何かが折れそうになる。
(エルガのせいじゃない……悪いのは……)
そのとき。
「やっと来たかよ」
闇の奥から声が響いた。
* * *
黒い外套をまとった男が歩み出てきた。
鋭い目だけが笑っている。
灰色のオーラが、男の周囲に薄く揺れている。
ナザール。
忘れようとしても忘れられない顔。
「俺たち烏から逃れるとでも思ったのか?組織の秘密を知ったお前をむざむざ逃すわけないだろ。お前の関係者は皆殺しだ、エルガ」
喉の奥が、音もなく凍りついた。
「……」
エルガは何も言わない。
けれどその背中から、白いオーラがわずかに漏れ出している。
呼吸とともに、静かに、しかし確実に膨れ上がっていく。
(怒ってる……? 違う……)
怒りなんかじゃ足りない。
もっと深い、もっと冷たい――凍るほどの感情だ。
ナザールは剣を抜いた。
灰色のオーラが刃の周りで歪んでいる。
「裏稼業に顔出しもしねぇ半端者が……そっちの女も先に殺してもっと苦しませてやるよ」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
(私を……?)
エルガが一歩前に出た。
盾を構え、剣を握りしめ、私とナザールの間に立つ。
「……貴様は俺が殺す」
たった一言。
それだけで倉庫の空気が震えた。
* * *
次の瞬間、二人はぶつかり合った。
金属が擦れる音。
オーラが軋む音。
空気が弾けるような圧。
私は数歩下がって壁際へ移動した。
巻き込まれれば、死ぬ。
でも目は逸らせなかった。
灰色の斬撃が何度も閃き、
白い盾がそれを逸らし、
剣が交差するたびに火花が散った。
ナザールの攻撃は速い。
殺意そのもの。
けれど、エルガは――それを全部見切っていた。
(……こんなに強かったの?)
「チッ……!」
ナザールの舌打ちが聞こえた。
灰色のオーラが揺らぎ始める。
焦っているのが、動きで分かった。
エルガは、静かに追い詰めていた。
(……すごい)
灰色の刃が横薙ぎに飛ぶ。
エルガは盾を傾けて受け流す。
刃が滑り、ナザールの体勢が崩れる。
「なっ……!」
その一瞬。
白い閃光が走った。
エルガが盾で殴りつける。
打撃の音が倉庫いっぱいに響き、
ナザールの身体が宙に浮いて木箱へ叩きつけられた。
「がっ――は……!」
血が飛び散る。
私は思わず口元を押えた。
(終わった……?)
ナザールはふらつきながら立とうとする。
だが、エルガは動かない。
呼吸すら乱していない。
「……調子に乗るなよ……っ!!」
ナザールが叫んで突進してきた。
灰色の軌跡が幾筋にも見えるほど速い。
倉庫の埃が舞い上がり、床板が軋む。
私は壁際で息を呑んだ。
(エルガ……!)
白と灰がぶつかる。
少しの沈黙。
次の瞬間――灰が砕け散った。
ナザールの剣が根元から折れ、
白い光が彼の胸を貫いた。
轟音が遅れて響いた。
ナザールの体は壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
* * *
エルガはしばらく動かなかった。
白いオーラがゆっくりしぼんでいく。
肩がほんの少しだけ揺れていた。
「エルガ……」
私はそっと近づく。
彼は姉の傍らへ戻り、冷たくなった頬に触れた。
「……守れなかった」
その言葉は、雨より冷たかった。
私は姉の手を握り、涙がようやく落ちてきた。
「エルガのせいじゃない……悪いのは……この組織よ……」
悔しくて、悔しくてたまらない。
エルガはゆっくりと立ち上がった。
白いオーラは完全に消え、ただ空っぽな背中だけがそこにあった。
「……終わっていない」
静かに言った。
「ナザールは……その一部にすぎない。
イーブルアイは、まだ残っている」
握り締められた拳が、白くなる。
その背中は、悲しみよりも――怒りよりも――
もっと深い決意で満ちていた。
* * *
(……なのに)
私は現在へ意識を戻した。
冷たい牢屋の石壁。
揺れる松明の光。
鎖の重さ。
(あのとき、確かに死んでた……はずなのに)
(息なんてしてなかった……!)
ナザールは、生きていた。
そしてまた――姉を奪ったときと同じ笑顔で、私を見下ろしていた。
「相変わらず……クソみたいな組織ね。イーブルアイ」
小さく呟く。
(でも、今回は違う)
あれからゼルハラに至るまで、色々なことがあった。
エルガは以前より、もっと強くなった。
私も、ただ何もできず震えていた昔の私じゃない。
(あんたたちの闇ごと、全部終わらせる)
遠くで波の音がする。
港町ワーレンへ向かう白金の影――
ジャレド、エルガ、マリアたち。
その姿を思い浮かべると、胸の奥で小さく火が灯った。
(復讐は、まだ終わっていない)
私は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。




