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第77話 雨の街、失われた灯火(前編)

 ナザールが去ってから何時間経ったのだろうか。

 鉄格子を握る指に、じわりと血が滲んだ。

 鎖はきっちりと短く繋がれていて、腕を伸ばしても格子の向こうには届かない。


 湿った石壁。

 錆びついた鉄の匂い。

 遠くで、波が岩を叩くような音がかすかに響いてくる。


 冷たい空気が肌に張りついて、否応なく“今いる場所”を思い知らせてきた。


(……五年前)


 瞼を閉じた瞬間、闇の底から浮かび上がるように、

 暖かくて、少しうるさくて、何よりも眩しい日々の記憶が蘇る。


* * *


 思い返すのは、アルディナ王国の都市――レンドラにいた頃のことだ。


 イーブルアイの本拠地がある街。

 私たち姉妹とエルガが最初に出会った、すべての始まりの場所。


 あの頃、エルガはイーブルアイの一員だった。

 けれど――彼は他の連中とは違っていた。


 貴族や豪商の護衛。

 王都から運ばれてくる荷物の監視。

 金貨を運ぶ商隊の護送。


 彼の受ける仕事は、どれも“表の仕事”ばかりだった。


 片手剣と盾。

 淡く光る白いオーラ。

 寡黙で、不器用で、でも確かに誠実だった。


 だからこそ、裏稼業にもってこいの人材だったはずなのに――

 エルガは、血の匂いがついた仕事から徹底的に距離を置いていた。


 夜遅く、レンドラの街を歩いていると、ときどき見かけた。


 血にまみれた烏の連中。

 灰色のオーラを纏い、何かを“処理”して帰ってくるナザール。


「裏のほうは儲かるらしいぜ」


 そんな声が横で上がっても、エルガは決して視線を向けなかった。

 私はその横顔を“冷たい”と思ったこともある。


 けれど今なら分かる。


 あのときの彼は、汚れた金を数える指を見たくなかったのだ。


(……だから、距離を置いていたんだ)


 暗殺。恐喝。脅迫。人買い。

 人を“金”として扱う者たちの中で、

 エルガだけが、ひとり違う場所を見ていた。


* * *


 私たちが出会ったのは、レンドラの外れにある小さな教会兼孤児院だった。


 姉のリディアは子どもたちの面倒を見ながら針仕事をし、

 私は読み書きのできない子に本を教えていた。


 姉は明るく華やかで、よく笑う人だった。

 波打つ赤茶色の髪に、長い脚。

 どこを歩いていても目を引く、そんな美しい人。


 イーブルアイの依頼で、その教会へ物資を届ける護送を担当したのが――エルガだった。


「この人が、例の用心棒?」


 姉が好奇心丸出しに覗き込むと、

 エルガは目を逸らして短く答えた。


「……仕事だ」


 そっけない態度。

 でも、その後ろ姿は妙に優しく見えた。


 何度か顔を合わせるうちに、自然と会話を交わすようになった。


 姉が笑い、

 私が冷静に突っ込み、

 エルガが不器用に返す。


 その繰り返しの中で、彼の雰囲気はゆっくりと変わっていった。


* * *


 エルガが組織を捨てると決めた日のことを、私は今でもはっきり覚えている。


 その日も、暖炉に火が灯っていた。

 夕暮れ、窓の外は橙から群青へと溶けていく時間。


 私たち姉妹も、烏の組織が裏で血生臭い仕事を請け負っていることは噂で知っていた。


 姉と婚約したエルガは、組織を抜ける決心をして、遠く離れた街で三人で暮らそうと言った。


 その時は、私も彼も軽く考えすぎていた。烏の組織があんなにも執念深く、巨大な闇だとは思ってもいなかった。


 * * *


 アルディナの南東にある、帝国との国境近くにある街、ソエル。

 イーブルアイの本拠地のあるレンドラから遠く離れた、静かな石造りの街。


 その街に移ってちょうど一年ほど経った頃だった。


 その家は、小さな丘の中腹にあった。

 石壁に蔦が絡まり、窓辺にはハーブが並び、

 暖炉の火がいつも優しく揺れていた。


 夕暮れどき。

 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、

 スープの匂いが家中に広がる時間。


「エルガ、動かないで。ほら、襟が曲がってる」


 リディアが背伸びをしながら、彼の服を整えていた。

 姉の動きはいつも軽やかで、よく笑い、よく喋る。


「……別に、まっすぐでなくても困らん」


「困るの。私が」


 やり取りを見ながら、私は湯気の立つマグを手に苦笑した。


「姉さん、もう少しエルガのペースに合わせてあげたら?」


「だって大事な日なんだもの。ちゃんとしてもらわないと!」


 エルガは視線を逸らしながら、かすかに赤くなった頬で答えた。


「……慣れん」


 そんな二人を見て、私は心の中でそっと思っていた。


(……このままなら、きっと大丈夫だ)


 レンドラから逃れ、

 ソエルに腰を落ち着け、

 穏やかな日々を一年も続けられた。


 朝。

 坂を上ってくるパン屋の少年に挨拶し、朝食を準備する姉。


 庭で木剣を振るエルガ。

 汗に濡れた肩が陽光を受けて輝いていた。


 仕立て屋で働く姉。

 本屋を手伝う私。

 街門で警備をするエルガ。


 夜。

 三人で卓を囲み、

 ささやかな料理を分け合う。


 笑って。

 からかって。

 少しだけ未来の話もして。


 あれが――私たちの“日常”だった。


* * *


 雨の日は、突然だった。


 昼前から静かに降り始めた雨は、

 午後にはざあざあと音を立てて降りしきった。


「今日は早く帰るって言ってたのにね」


 姉はマントを羽織りながら笑った。


「野菜を買ってくるわ。すぐ戻るから、ヴェラは火を見てて」


「はいはい。濡れないようにしてね」


 姉の背中は、雨に煙る坂道の向こうへすぐに消えていった。


 ――その背中が最後だった。


* * *


 長くは待たなかったつもりだ。

 でも気づけば、窓の外は薄暮に染まり、

 雨音だけが世界を覆っていた。


「……遅い」


 胸の奥がじわりと重くなっていく。


 マントを取ろうとした――そのとき。


 コン、コン。


 扉が叩かれた。


「姉さん?」


 私は急いで扉へ向かい、取っ手に手をかけた。


 開いた扉の向こうに立っていたのは――

 ずぶ濡れのエルガだった。


「……エルガ?」


 水滴が外套からぽたぽたと落ち、床に黒い染みを作る。

 彼の顔は、いつもの無表情――

 ……なのに、その瞳の奥だけが鋭く揺れていた。


「姉さんは?」


 問いかけながら、半分は答えを知っていた。


 エルガは一瞬だけ目を伏せた。

 その沈黙の間に、私は理解したくもない真実を悟ってしまう。


 そして彼は、静かに告げた。


「――見つかった」


 雨音が、急に遠くなった。


 足元が揺れたように感じたのは、気のせいではなかった。


(あの日から、全部が壊れた)


 暖炉の火は、すでに小さくなりかけていた。


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