第76話 黒き再誕、帝都を駆ける焦り
巨大な海蝕洞窟の出口。
裂けた天井から差し込む陽光が海面に反射し、洞窟全体を青い光が照らしている。
ドーレイとマルナは上れそうな岩の裂け目へと続く岩場を、慎重に足場を確かめながら登り切った。
「……本当に海だな、こりゃ」
目の前に広がった光景に、ドーレイは息を漏らした。
寄せては返す波の音が、腹に響くほど強く響いてくる。
マルナは目を細め、海岸線のほうへ進んだ。
「ここ……どこなの? 本当に帝国国内?」
「全くわからん。海があるってことしかな」
ドーレイは湿った砂を踏みしめながら、見渡す。
長い海岸線が続き、その向こうには断崖と岩場。
岩場ばかりで森は見えない。
街の気配もない。
ただ、海と風の音だけが辺りを満たしていた。
「……ドーレイ。沖合に船が見える」
マルナが指差す。
白い帆を掲げた中型船が、潮風をはらみながらゆっくりと近づいてくる。
「陸に寄ってきてるのか?」
「ええ。人影もある……停泊か、上陸か……」
マルナは息を呑む。
「とにかく、あの船の向かう先を追えば、何か分かるはず。行こう」
「だな。もう地下はこりごりだ。海岸ぐらい歩くさ」
二人は洞窟を離れ、潮風の吹きつける海岸へと踏み出した。
濡れた砂が足にまとわりつく感触が、生きていることを強く実感させた。
◇
同時刻、地下神殿・別通路
ひっそりと静まり返った神殿の奥、
闇に紛れるようにして小さな扉が軋む音を立てて開いた。
そこから黒衣の司祭たちが三名、松明の灯りを照らしながら現れた。
「……遅れたか。地上の監視に手間取ったせいだ」
「帝都の審問官め、そろそろ勘付いてやがる」
「儀式の刻限に間に合わぬぞ……急げ」
彼らはドーレイたちが落下した“天井の穴”とは別の、
古代の儀式用通路──神殿の正規の入口から到着していた。
だが、神殿内部の様子がおかしいことに気づく。
「な……っ!」
「馬鹿なっ……!? 牛鬼が……!」
ミノタウロスの巨体は血にまみれ、
角の一本はねじ切られ、
胸や肩には“肉を抉り取られた痕”が露骨に残っていた。
「ば、馬鹿な……“アルガ=ミノタウロス”は第五級の災厄だぞ!?
たとえ一級冒険者が三十人いても勝てん化け物だ!」
別の司祭が祭壇と焚き火の跡を見て、怒りに震えた。
「ありえん……!?
誰だ……何者がこんな真似を……!」
そのとき。
神殿奥の闇から、ゆっくりとした足音が響いた。
「慌てるな。儀式は……まだ死んでいない」
「大司祭様……!」
黒衣の司祭たちは慌てて跪く。
大司祭と呼ばれた男はミノタウロスの死体の前へ立ち、折れた角、欠損した肉片、血溜まり──すべてを一瞥し、低く笑った。
「確かに“生贄”には使えなくなった。
しかし──“駒”にはできる」
大司祭は黒い短剣を取り出し、祭壇中央へ突き立てた。
血の溝が黒く泡立つ。
「“屍魂縫合”──始めよ」
「は、はい!」
三人の司祭が慌てて詠唱を始める。
黒い瘴気が儀式陣の周囲に集まり、欠損した肉が“逆に盛り上がるように”再生し始めた。
折れた角の根元も不気味に蠢き、
やがて瘴気で形成された黒い刃のような“角”が生える。
「ひ……っ」
「牛鬼のアンデッド……!」
大司祭は冷ややかに笑った。
「名を与える。
──“タウロス・ネクラ”。」
そのとき。
どくん……
死体の胸が脈打った。
ど……くん……
黒い光が瞼の隙間から漏れ、
ミノタウロスの巨体がゆっくりと起き上がる。
黒煙のような瘴気が天井へ渦を巻いた。
「計画を変更する。
本神殿に周辺に散らばる骸骨兵どもを呼び戻せ。
奴らを先行させ──“タウロス・ネクラ”を地上へ放て」
「承知……!」
大司祭は静かに背を向けた。
「烏にも計画変更を伝えよ。帝都を飲み込む」
タウロス・ネクラが低く唸り声を上げ、廃砦へ向けて歩み出した。
◇
帝都バル=ゼルン。
ジャレドとエルガは冒険者ギルド本館の大きな掲示板の前に立っていた。
明かり取りの窓から差し込む光が、石床と書類を淡く照らしている。
ギルド内部は夕方の人波が絶えず、武器の金属音、足音、ざわめきが入り混じっていた。
「……港町ワーレン行きの伝令馬は全部出てるな」
ジャレドが掲示板の依頼票を指で弾く。
エルガは黙ったまま反対側の窓から街道の方角を見る。
その眼差しは鋭く、深い決意が沈んでいる。
「廃砦の救助隊はどうなってる?」
ジャレドが受付へ歩み寄る。
職員は目を上げ、丁寧に帳簿を確認した。
「先発隊はすでに現場へ向かいました。
アンデッドの出現が確認されているため、後発隊として教会・ギルド合同の部隊が準備中です」
「行方不明者は二名だろ。……見つかった報告は?」
「まだ……何も」
ジャレドは小さく鼻を鳴らした。
「不死身は問題ない。どうせ自力でなんとかする」
そう言い切った声音には、不思議な確信があった。
長く共に戦った男だからこそ分かる“しぶとさ”だった。
「準備はいいか」
ジャレドが振り返る。
入口のほうでは、マリア、レアン、ティアが荷袋を抱えて待っていた。
「ばっちり! 食料も揃えた!」
「水袋三つ! あと予備の薬草!」
「ち、地図も確認しました……!」
帝都に来たときより、三人の表情は引き締まっていた。
「なら出発するぞ」
ジャレドが扉に手をかける。
「……ああ」
エルガが短く応じた。
ギルドの大扉が重い音を立てて開く。
夕陽が傾き、帝都の石畳が赤銅色に染まっていた。
◇
──暗闇。
湿った空気、海の匂い、そして冷えた鉄。
ヴェラは意識を戻すまでに時間を要した。
ゆっくり瞼を開けると、目の前には鉄格子が伸びていた。
手首にかけられた鎖が、わずかに揺れて音を立てる。
「ようやくお目覚めか」
暗がりの奥から声がした。
松明の炎がゆらりと揺れ、男の輪郭を照らす。
ナザールが鉄格子越しに立っていた。
ヴェラは首筋に走る鋭い痛みに息を呑む。
トゥリオに手刀を打ち込まれた感覚が、まだ残っている。
「……ここは?」
「この国にある俺たちイーブルアイの拠点だよ。
言ったろ? “場所を変えよう”って」
ナザールは皮肉交じりに笑った。
「セリナはどこ?」
「安全な場所にいる。……もっとも、これからどうなるかは知らんがな」
ヴェラは鉄格子に手をかけ、鋭い眼光を向ける。
「目的は私とエルガのはず。関係ない人は解放して」
「関係ない?」
ナザールはゆっくり歩み寄り、鉄格子に指をかけた。
その指先から、黒い瘴気がじわりと立ちのぼった。
「“お前たちに関係している人間”は全員、消す。そういう話だ」
ヴェラの呼吸が止まる。
ナザールの瞳は、深い底なしの黒だ。
「まずは……貴様を餌にエルガを呼び出す。
アイツは必ず来る。おまえを救うためならな」
瘴気が鉄格子を黒く染めるように見えた。
ヴェラは唇を噛み締めた。
怒りと悔しさで震えるのではなく、冷たく澄んだ瞳でナザールを睨み返す。
「……来るわよ。あなたが思ってる以上に、強くなってる」
「楽しみにしているとも」
ナザールはまるで劇の幕が上がるのを待つ役者のように笑った。
◇
帝都南門──夜。
馬の吐息が白く揺れ、松明の影が揺れる。
「港町ワーレンまで急ぐぞ」
ジャレドが砂馬の背に飛び乗る。
エルガは静かに頷き、街道の先を見据えた。
「ヴェラ……必ず助ける」
その呟きは誰にも聞こえなかったが、夜風だけは確かに受け取った。
「マリア、レアン、ティア、遅れるなよ!」
「了解!」「もちろん!」「が、頑張ります!」
五人の影が、帝都の灯を背に一斉に駆け出した。
砂と風が巻き上がり、馬蹄が夜の街道を叩く。
──港町ワーレン。
そこに、烏の影が巣を張っている。
闇に沈む海鳴りが、嵐の前の静寂のように低く響いていた。




