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第72話 帝都の喧騒、烏の目覚め

 ミノタウルスの巨体が動かなくなってから少し。


 血の匂いが、まだ濃い。

 神殿の石床には、ミノタウルスから流れ出た血が、細い溝を伝って複雑な紋様をなぞっている。さっきこちらを振り向いたように感じた壁画の影は、いまは静かに沈黙していた。


「……さて、と」


 立ち上がる。

 骨はまだ軋んでいるが、動けないほどじゃない。


 ミノタウルスの死体に近づき、改めて観察する。

 分厚い筋肉に覆われた腕、胸郭、鉄のような皮膚。その上から更に、黒鉄の鎧が締め付けるように装着されていた。


(身につけてるもんも――普通じゃねぇよな)


 鎧の留め具を外しながら、金属の感触を確かめる。

 目についたのは、太い指にねじ込まれていた一本のリングだった。


 黒銀色。

 表面には、削り込まれた細い線が絡み合って、円環の中に知らない紋様を形作っている。

 ぱっと見ただけで、そこに“力”があると分かる。


「身につけてるもんも魔道具か? ……このリング、なんとなく力を感じるな」


 独り言みたいに呟きながら、リングを引き抜いた。

 ミノタウロスの指から抜くとき、骨ごと軋むような手応えがあった。


 指で転がして重さを確かめ、なんとなく、そのまま自分の指にはめてみる。


「ちょっと――!」


 マルナの制止より先に、リングは俺の指に触れた。


 太さが明らかに合わない。

 はめようとした瞬間、金属が、わずかに“柔らかく”なった。

 黒銀の輪が、俺の指の太さに合わせて、ゆっくりと縮む。


 ぴたり、と音がした気がした。


「……おいおい」


 指輪は、違和感のないきつさで、その場に収まった。

 抜こうと試してみるが、こちらの意思に合わせてか、今度はちゃんと抜けない。


「な、何やってるのあなたは!!」


 マルナが駆け寄ってきて、俺の手首を掴んだ。

 眼鏡の奥の瞳が、心底から呆れたように見開かれている。


 「鑑定もせずに勝手に付けるなんて、正気!? 呪われてたらどうするつもり!!」


 その瞬間。

 指輪から、黒いモヤのようなものがふっと立ちのぼった。


 瘴気。

 肌に触れた空気が、冷たく、重く沈む。


 マルナが慌てて後ろへ下がる。

 だがすぐに、黒い靄は霧散した。


 跡形もなく。


 「……今の、見たよね?」

 「見たな」


 指輪の中で、何かが俺を“測った”ような感覚があった。

 それが終わった途端、瘴気はきれいさっぱり引いていく。


 代わりに、じわじわと。


 体の奥から、力が湧いてくる。

 血液の流れが一段濃くなるような、そんな感覚。


 「……あぁ、呪われてても耐えるだけだし、問題はねぇよ」

 「問題、大ありなんだけど!?」

 「それより――」


 握った拳に力を込める。

 筋肉の線が、さっきよりくっきり輪郭を持って感じられる。


 「力が漲ってくる感じがする。悪くない」


 マルナは頭を抱えた。

 「本当に頭がおかしい……」


 天井の魔法灯が、ほんの一瞬だけ、明滅したように見えた。

 神殿の空気が、先ほどよりも少しだけ冷えた気がする。


 祭壇の紋様は、さっきよりも“静か”だ。

 だがその静けさは、嵐の後のような、妙な静けさでもあった。


「とりあえず、ここに長居はしたくないわね」

 マルナが呟く。


「ああ。上に戻る道か、別の出口か――どっちにしても探さねぇとな」


 俺は剣を回収し、ミノタウルスの死体から目を離した。

 指輪は冷たく、そして、どこか心地よく指に馴染んでいた。


 ◇


 帝都・バル=ゼルン。

 冒険者ギルド本館、その奥の一室。


 分厚い扉が閉まると、外の喧騒はすぐに遠のいた。

 石壁には地図と依頼書が貼られ、窓際の棚には古い巻物がいくつも重ねられている。


 部屋の奥、書類の山の向こうに男が座っていた。


 白髪まじりの黒髪を後ろで束ね、濃い灰色の上着をきっちりと着込んでいる。

 胸元には帝都ギルドの紋章。

 目元に刻まれた皺は穏やかだが、瞳だけは油断なく鋭い。


 帝都冒険者ギルド・ギルドマスター、グラッド・アルスター。


 その左隣には、細身のギルド職員が一人。

 書記用の板を抱えて、報告を待っていた。


 机の前に、リグとヴェラが立つ。

 リグは真っ直ぐ、ヴェラは腕を組んだまま、少し壁側に体重を預けていた。


 「……なるほどな」


 グラッドが短く息を吐いた。

 報告を一通り聞き終えたところだった。


 「帝都近郊の廃砦、その地下でアンデッドと交戦」

 書記が簡潔に復唱していく。

 「骸骨兵多数、階層構造不明。下層への通路を発見し、調査中に崩落。冒険者ギルド所属マルナ、ならびに外部戦力一名が落下……生死不明」


 「外部戦力って言い方、好きじゃないんだけど」

 ヴェラが小さく肩をすくめる。


 グラッドは彼女に一瞥をくれた。

 その視線が、首元の金の輪で止まる。


 「アンデッド、ね」

 椅子の背にもたれ、指を組む。

 「厄介な話だ。救助も必要だが――アンデッドの、しかも群れが出たとなれば、放置はできない」


 声の調子は穏やかだが、その裏にある“重み”は隠していない。


 「教会にも連絡を入れろ」

 グラッドが職員へ言う。

 「浄化系の術者、それと封印に長けた者を含めて、共同で調査隊を編成する」


 「承知しました、ギルドマスター」

 職員が頭を下げ、足早に部屋を出ていく。


 リグが一歩前へ出た。

 「救助は――いつ動ける?」


 グラッドは机の上の地図に視線を落とした。

 砦の位置に印が付けられている。


 「準備が出来次第だ」

 あくまで淡々とした口調で答える。

 「崩落の危険がある地形だ。行き当たりばったりで降りれば、二次災害で死人が増える。足場の固定、結界符の準備、教会側との調整……最低限そこまで整えてからだ」


 ヴェラの眉が僅かに動いた。


 「そんな悠長なことを言ってる暇がある? あそこはもう“穴”が開いてるのよ。

  先行部隊だけでも組んでくれない? 降りるなり、上からロープを伸ばすなり、方法はいくらでもあるはず」


 グラッドの視線が、改めてヴェラに向けられる。

 金の首輪。

 そこから視線を上へ滑らせていく。


 「……ゴールドランクの剣闘士か」

 小さく呟き、口元だけで笑った。

 「なるほど。アレナ・マグナじゃ、さぞかしチヤホヤされてるんだろうな」


 「ここがアレナ・マグナじゃないのは分かってるわ」

 ヴェラが言い返す。

 声のトーンは抑えているが、目の奥に苛立ちが光る。


 「なら早い話だ」

 グラッドは肩をすくめた。

 「ここは帝都・バル=ゼルン。冒険者ギルドは帝国の管轄、現場の采配はギルドマスターであるこの俺が握っている」

 椅子から体を起こし、机越しに視線を固定する。


 「悪いが――こっちの意向に従ってもらう。あんたの首輪は、ここでは何の役にも立たん」


 室内の空気が、一瞬だけ張り詰めた。


 ヴェラの唇がなにか言いかけ、そこで止まる。

 代わりに、長く息を吐いた。


 リグがその間に口を挟む。

 「……要請してもいいか? マルナはうちの仲間だ。編成完了前に、せめて位置だけでも把握できる探索班を出してくれれば」


 グラッドはほんの少しだけ考え込み、それから頷いた。

 「位置特定のみを目的とした探索班なら検討しよう。だが全面救助行動は、準備が整ってからだ」


 「それでいい」

 リグが頷く。


 グラッドはもう一度ヴェラを見る。

 「……あんたも、もし本当に救いたいなら、今は身体を休めておけ。無茶を通せば、通した分だけ犠牲が出る」


 ヴェラはただ、視線を逸らした。


 ◇


 個室の外、石の廊下。


 リグとヴェラが並んで出てくると、その少し先でエイベルが壁にもたれて待っていた。

 盾は外しているが、表情は硬い。


 「どうだった?」

 エイベルがリグに問う。


 「アンデッド案件として、教会と共同での調査に切り替え。救助は――準備でき次第だ」

 リグが簡潔に答えた。


 エイベルが小さく舌打ちする。

 「まあ、予想通りか」


 ヴェラが周囲を見渡した。

 「セリナは?」


 エイベルは首を傾げる。

 「さっきまでロビーにいたはずだが……そういえば、トゥリオも見てないな。

  二人とも、先に宿に戻ってるのかと思ってたが」


 ヴェラの眉が寄る。

 「……ちょっと見てくる」


 踵を返し、ギルドのホールへ向かう。


 ギルドの一階は、依頼掲示板の前で冒険者が行き交い、受付前には列ができている。

 鎧の軋む音、酒と汗の混じった匂い、怒鳴り声と笑い声。


 その中に、セリナの姿はなかった。


 受付嬢に声をかける。

 「さっき私と一緒にいた、白いローブの女性と、弓持ちの青年を見てない?」


 受付嬢は首をかしげた。

 「えっと……これだけ人がいるので何とも……」


 ヴェラはギルドの外にも出て、通りを見回した。

 石畳の上を、人と荷車が行き交う。

 屋台の呼び声が飛び交い、夕方に向けて街の色が変わり始めている。


 宿《旅人の冠亭》にも足を伸ばすが、そこにもセリナはいなかった。


 「……何やってんのよ、もう」


 誰にともなく零し、首筋に嫌な汗が滲むのを感じた。


 ◇


 その少し後。

 冒険者ギルドの前。


 石段の下で、リグとエイベルが待っているところへ、ヴェラが戻ってきた。


 「いたか?」

 リグが問う。


 「どこにも。ギルドにも、宿にも……市場も軽く見たけど、影も形もない」

 ヴェラが首を横に振る。


 エイベルも渋い顔をした。

 「こっちもだ。知り合いの酒場に顔を出してみたが、それらしい話はない」


 帝都の喧騒の中で、三人の周りだけ空気が沈んでいた。


 「トゥリオも、だな」

 リグが低く呟く。

 「……嫌な一致だ」


 ヴェラは答えず、通りの向こう側を睨むように見た。

 人混みの中で、ふと、視線と視線がぶつかった気がした。


 灰色の外套の影。

 前に一度見たことのある、あの闇市の酒場の――。


 男はすぐに視線を逸らし、裏路地のほうへすっと消えていく。


 「――あいつ」


 ヴェラの足が勝手に動いていた。


 「おい! ヴェラ!」

 リグが呼び止めるが、彼女は振り返らない。

 人混みを縫うようにして、影を追う。


 エイベルが舌打ちした。

 「行くぞ」

 「分かってる」


 二人も慌てて後を追い、三人は程なく人通りの少ない裏路地へと入った。


 ◇


 闇市の区画は、昼でも薄暗かった。

 帝都の主通りから一筋外れただけで、空気の匂いが変わる。


 油と香辛料と古い酒の匂い。

 地面に溜まった水たまりには、煤とゴミが浮かんでいる。


 前にも入った、あの酒場の黒い扉が見えた。

 扉の上の看板は、相変わらず半分剥がれている。


 男の影は、その扉の隙間から中へと消えていた。


 「……ここか」


 ヴェラは一息つき、扉を押し開けた。


 中は薄暗く、煙草と酒の匂いが立ちこめている。

 前に来たときと同じ、古い弦の音。

 ただ、客の顔ぶれは微妙に違っていた。


 視線が一斉にこちらを向き、すぐに首輪の色を見て引いていく。


 奥の席。

 灰色の外套、黒い手袋、目元には布。


 あの情報屋が、静かに杯を傾けていた。


 ヴェラが真っ直ぐその席に向かう。

 リグとエイベルは少し後ろに控えた。


 「……二度目は、あまり歓迎されない店なんだけどな」

 情報屋が肩をすくめる。

 声には揶揄が混じっていたが、その瞳は笑っていない。


 「こっちも好きで来てるわけじゃないの」

 ヴェラは席の向かいに立ったまま、目を細めた。

 「何か、知ってるでしょ」


 情報屋は、指先で杯の縁を一度なぞった。

 その後、ゆっくりと視線を上げる。


 「……何についてか、聞いても?」


 「帝都ギルド前から消えた私の連れの治癒士と――弓を持った青年」

 ヴェラの声は低い。

 「さっき、あんたがここへ来るのを見た」


 灰色の外套の男は、ほんの少しだけ眉を動かした。

 だがすぐに、深く息を吐く。


 「……先に、こっちの用事からだな」


 テーブルの下から、小さな封筒を一つ取り出した。

 封は黒い蝋で閉じられている。

 表には名前はなく、ただ、簡素な線で描かれた“烏”の紋。


 「アンタに手紙を預かってる、赤髪のヴェラさん」


 ヴェラの指先が、一瞬だけ止まった。


 その紋様を見た瞬間、胸の奥で、古い何かがざわ、と動いたような気がした。


 「……誰から?」


 情報屋は答えない。

 代わりに、ほんのわずかに肩を竦めた。


 「“昔の知り合い”からだとさ。

  ――あの女の居場所が知りたきゃ、まずはそれを読めってな」


 酒場の空気が、音もなく重くなる。

 蝋封に刻まれた烏の紋が、薄暗い灯りの中でじわりと光ったように見えた。

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