第71話 災厄の牛鬼、不死身の咆哮
ミノタウロスが咆えた。
腹の底を殴られたような衝撃が、空気ごと押し寄せてくる。
石造りの神殿が軋み、柱の土埃がぱらぱらと落ちた。
次の瞬間には、もう目の前にいた。
「――っ!」
ドス黒いオーラを纏った大斧が横薙ぎに振り抜かれる。
視界の端で床石が弾け飛んだ。
俺は身を沈め、地を蹴って滑るように横へ抜ける。
遅れた。頬をかすめただけで、皮膚が裂けた。
(速ぇな、おい)
単に力が強いだけじゃない。
膂力に任せた大振りではなく、重さと速度を噛み合わせた“狩り慣れた一撃”だった。
「下がってろ!」
俺は短く叫び、剣を抜いた。
掌を浅く裂き、血を刃へ滑らせる。
赤黒いオーラが音もなく立ちのぼり、刃が重くなった。
ミノタウロスの瞳が、わずかに細くなる。
口から白い息が漏れた。
挑発に応じたのか、それとも――。
巨体が一歩踏み出した。
それだけで床がうねる。
大斧がずしりと肩から下ろされ、今度は縦に打ち下ろされる。
「――っ!」
オーラを刃に集中させ、正面から受けた。
衝突の瞬間、世界が一瞬白く弾ける。
膝がめり込みそうな重さ。
腕の骨が悲鳴を上げた。
だが、押し負けない――はずだった。
パァン!と嫌な音がした。
刃と刃の間、圧力が抜ける。
オーラの層が、紙を破くみたいに裂けた。
「っぐ……!」
纏ったオーラごと押し潰される。
衝撃が肩から背骨まで駆け抜け、宙を転がった。
石床に叩きつけられ、肺から空気が抜ける。
「ドーレイさん!」
背後でマルナの叫び声。
詠唱の音が途切れ、足音が止まった。
(……今のを受けきれねぇか)
胸が焼ける。
肋骨が二、三本、派手にいった感覚があった。
体勢を立て直す前に、影が覆いかぶさる。
踏みつけ。
蹄が床を砕き、さっきまで俺の頭があった場所に、蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
転がる勢いを殺さず、肩で滑り、距離を取る。
ミノタウロスは追わない。
大斧を肩に担ぎ直し、こちらの出方をうかがうように、わずかに頭を傾けている。
(考えてやがるな、こいつ)
ただの獣じゃない。
獣の皮をかぶった戦士だ。
「……勝てるはずない」
背後でマルナが震えた声を漏らす。
「神話の中の災厄にたった一人で……」
足がすくんだのが、視界の端で分かった。
詠唱に戻る気配がない。
完全に戦意を削がれている。
俺は口元の血を拭い、立ち上がった。
肺の奥がざらつく。呼吸を一度深く整える。
「喰らえよ、アルマ」
自分にしか聞こえない声で呟き、オーラをさっきより深く沈める。
これだけじゃ足りねぇ。
――ありったけを喰らわせないと、こいつには勝てない。
ミノタウロスが動いた。
地を蹴る音と同時に、視界から消える。
気配だけが、真正面から――右に切れ、左へフェイント、そのまま背後へ回る。
全身の毛穴が、危険を叫んだ。
「……っ!」
振り向きざま、剣を背中側へ振る。
同時に腰を捻る。
漆黒と赤黒が衝突し、火花を散らした。
受け切らない。軌道をずらす。
大斧は髪の上をかすめ、背後の柱に叩き込まれた。
柱の半分が、その一撃だけで崩れ落ちる。
(冗談だろ)
防いだはずの衝撃が腕ごと腰に抜け、足が勝手に下がる。
骨の軋みと、オーラの“ひび割れ”が同時に感覚で理解できた。
まともに受けたら、砕かれる。
なら――
「……受けずに、抜いてやる」
俺は前へ出た。
避けるのではなく、一歩踏み込みながら軌道をずらす。
ミノタウロスの肩口すれすれを抜けるように滑り込んで、腕の内側へ。
大斧の遠心力が死ぬ“死角”。
そこから一撃。
脇腹の鎧と肉の境目を狙って、斜めに斬り上げた。
硬い手応え。
血が飛び散る。
だが、ミノタウロスは怯まない。
むしろ、楽しげに喉を鳴らした。
巨腕が肘打ちのように振り払われる。
防御が間に合わない。
オーラを胸の前に集中させた瞬間、鉄塊みたいな肘が飛び込み、視界が回転する。
胸骨がひしゃげる感覚。
壁に叩きつけられ、そのまま床にずり落ちた。
「ドーレイさんっ!」
マルナの悲鳴。
足音が、こちらに駆け寄ってくる。
「来るな!」
自分でも驚くほど、声がよく出た。
腕一本で身体を起こし、前を睨む。
ミノタウロスは、すでにこちらへ向き直っていた。
口元から血を垂らし、それを舌で舐め取る。
赤い瞳が細くなる。
評価されたような気配。
(ああ、そうかよ。丁寧な歓迎だ)
肋骨の軋みと一緒に、笑いが漏れた。
蓄積されたダメージを糧に、オーラをさらに深く沈める。
皮膚の上を流すのではなく、骨の髄、筋の線一本一本に染み込ませるように。
指が震え、視界の端が少し暗くなる。
その分だけ、世界の輪郭がくっきりする。
ミノタウロスが、また一歩。
床が鳴る。
気配が膨らむ。
大斧が、さっきまでとは違う軌道で――斜め上から、叩き斬るように落ちてきた。
(正面で受けない)
地を蹴る。
半歩だけ。
踏み込みと同時に、刃を“大斧の柄”に沿わせるように滑らせる。
重さの芯をずらす。
金属同士が擦れ、耳障りな高音が神殿に響いた。
刃は肩先をかすめただけで床をえぐり、石片が爆ぜた。
その一瞬。
大斧の重さが、ほんの少しだけ抜けた。
――ここだ。
俺は、踏み込む側とは逆の足を軸に、全身を捻った。
腰、背中、肩、腕、指先。
そこに溜めていたオーラを、一気に剣へ集中させる。
「力をッ……寄越せぇぇええ!」
ありったけを喰らわせ、凝縮されたオーラを纏った剣を、突き上げる。
狙うは、胸郭の中心。
鎧の継ぎ目、心臓のあたり。
骨を砕く感触。
肉を割る感触。
何か硬いものを貫いたような、嫌な手応え。
ミノタウロスの咆哮が、空気を震わせた。
至近距離で浴びた叫びに耳がしびれる。
巨体が暴れる。
剣を抜く余裕はない。
押し込んだ剣の先――胸の奥で、オーラを爆ぜさせる。
内側から焼く。
血と気配が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感覚。
ミノタウロスの腕が空を切り、大斧が手から滑り落ちた。
斧頭が床にめり込み、石床に亀裂が走る。
巨体が、一歩後ずさる。
もう一押し。
俺は剣から手を離さず、肩で押し込む。
膝の力が抜けかけるのを、歯を食いしばって支えた。
赤い瞳の光が、じわじわと薄れていく。
その瞬間――
ミノタウロスは、笑ったように見えた。
次の瞬間、巨体が前のめりに崩れ落ちた。
俺も剣ごと押し倒され、腹の上にとんでもない重さがのしかかる。
「ぐっ……!」
肺がまた押しつぶされる。
慌てて横に転がり、何とか巨体から抜け出す。
剣は、胸に深く刺さったままだった。
ミノタウロスは痙攣するように数回肩を震わせ、それきり動かなくなった。
神殿の空気が、わずかに軽くなる。
オーラを引き戻す。
引き戻しきれなかった分が、じわじわと骨の中で疼いた。
「……ふぅ」
床に座り込み、背を柱に預けた。
体中がガタガタに痛い。
血だらけに加え、肋骨は何本いってるか、数える気にもならない。
マルナが駆け寄ってきた。
膝をつき、慌てて俺の胸に手を当てる。
「大丈夫!? 応急処置だけでもすぐに!」
光の魔法を紡ごうとしたその指先が、途中で止まった。
裂けていたはずの皮膚が、みるみるふさがっていく。
血の滲んでいた場所が、赤い線だけを残して消えていく。
「そんな……あれだけの怪我が……」
驚愕と戸惑いが混じった声。
俺は天井を見上げた。
壁画の角を持つ影の上に、うっすらと黒い煤のようなものがまとわりついているのが見えた。
ミノタウロスから抜けた何かが、そこへ吸い込まれていくような――気のせいかもしれない。
「……化け物じみた膂力だったな」
ようやくそれだけ言って、息を吐く。
マルナが半ば呆れ、半ば安堵した顔で俺を見る。
「……まさか本当に一人で倒しちゃうなんて」
胸の痛みが少し引いてきたところで、俺はミノタウロスの死体に視線を向けた。
巨大な背中。
分厚い筋肉。
焼いたら、どんな匂いがするだろうか、とふと考える。
「なぁ、マルナ」
「何です?」
「あいつって――食えるのか?」
マルナの手が止まった。
しばし沈黙。
「……は?」
「いや、血を流しすぎたから何か食わねぇと」
「……少なくとも、神話の中で災厄に分類される魔物よ?“食材”の項目に載っていた覚えはないけど」
呆れたように息を吐きつつも、マルナの口元には、ほんの少しだけ笑みの気配があった。
「まずは生き延びることを考えて」
「生き延びるために食うんだろ」
そんなやり取りをしている間にも、神殿の空気は少しずつ変わっていく。
重かった圧が、肩から降りたような感覚。
代わりに、どこか遠くから冷たい風が吹き込んでくる。
ミノタウロスの血が、石床の細い溝を伝って祭壇の足元へと流れ込んでいた。
擦り減っていた紋様の一部が、じわりと赤く縁取られる。
「……おい、あれ」
俺が顎で示すと、マルナも祭壇を見た。
壁画の影――角を持つ黒い輪郭が、一瞬だけ、こちらを振り向いたように見えた。
次の瞬間には、ただの絵に戻っている。
「……気のせい、だよね?」
「だったらいいんだがな」
冷たい風が、またひとつ吹き抜けた。
闇底の神殿は、獲物を一つ失っただけで、まだ完全には眠っていない――
そんな気配だけが、骨の奥に残っていた。




