第70話 墜落の果て、目覚める牛鬼
時間は、少し遡る。
足元が抜けた瞬間、身体が宙に放り出された。
岩片と砂が周囲を逆流し、暗闇が一気に口を開ける。
マルナの悲鳴が、耳元で切れた。
すぐに意識が途切れたのだろう。腕に触れた身体から、力が抜けていく。
(このまま落ちれば、間違いなく命はない)
胃が浮く感覚の中で、俺は歯を食いしばった。
「――アルマ、力を貸せ!」
腰のナイフを引き抜き、手首を自分で裂く。
熱い血が噴き出し、落下する風の中で細い線を描いた。
それを、自分の意思で“掴む”。
赤黒いオーラが、刃から腕へ、胸へ、背骨へ。
瞬く間に全身を包み込んだ。
骨の内側から焼けるような熱と、皮膚の表面を凍らせる冷気が、同時に駆け抜ける。
片腕でマルナの身体を抱き寄せる。
もう片方の手で、下方に意識を向けた。
「どこまで……深いんだ、ここは」
視界は闇で埋まっている。
だが、目の奥で別の“像”が結ばれ始めていた。
光ではなく、圧と温度と、わずかな気の流れ――
(……見えた)
下方、はるか先。
硬い岩盤が広がる感覚。その上に、まばらな突起。
落下の速度が、骨にきしみを生むレベルに達したのを感じた瞬間、俺は全身からオーラを“解放”した。
「――ッ!」
目に見えない衝撃波が、地面に叩きつけられる。
着地地点の岩盤が爆ぜ、穴が穿たれた。
吹き上がった衝撃が逆流し、俺とマルナの落下速度を奪い取る。
足裏が地を踏んだ。
二重、三重に膝を沈め、衝撃を流す。
周囲の岩壁が低く唸り、砕けた石片がぱらぱらと降ってきた。
「……ふう」
息を吐き、オーラを収める。
焼けるようだった手首の傷は、すでに半ば閉じかけていた。
腕の中のマルナは、意識を失ったまま、微かに眉をひそめている。
そっと地面に下ろし、背を壁にもたれさせた。
「……助かったか、間一髪ってやつだな」
周囲を見渡す。
光はない。
だが、さっきと同じ“感覚”で形をなぞる。
かなり広い空洞だ。
天井は高く、ぽつりぽつりと鍾乳石のようなものが垂れている。
足元は岩と砂が混じり合ったような地面で、一部はさっきの衝撃で抉れていた。
「さて……どうするか」
この深さだ。さすがに上まで跳び戻るのは、距離がありすぎる。
それに――
(上の連中は、どう判断するか)
考えても仕方がない。
まずは、ここで死なない準備からだ。
俺はマルナの呼吸を確かめ、しばし静かに目を閉じた。
◇
一方そのころ――砦跡の地上。
帝都へと戻るはずだったが、地下へと続く入り口の前で、全員が腰を下ろし、重い沈黙が続いていた。
「……待っててもすぐに戻って来れるとは思わないわ」
ヴェラが低く呟いた。
セリナは膝をつき、手を組んで目を閉じている。
小さく、何かを祈る言葉が唇から漏れた。
少し離れたところで、トゥリオが黙って二人を観察していた。
その瞳には心配と――どこか測るような光が同居している。
リグは地下への入り口から離れ、頭をかいた。
「……呼びかけても反応はなかったし、魔法の光も届かなかった。あれだけ深いと、無理に降りるのは自殺行為だ。やはり帝都に戻って立て直すしか……」
エイベルは盾の縁を握りしめたまま、頭を抱えている。
「マルナの奴……あの高さから……」
ヴェラは立ち上がり、久しく息を吸った。
「不死身が一緒よ」
四人の視線が集まる。
「少なくとも、まだ“生きてる”わ。」
リグが目を細めた。
「……不死身ってあの?」
「ええ。あいつならあの高さからでも、きっと何とかするわ。」
セリナがかすれた声で問う。
「ヴェラさんは……なんでそんなに、冷静でいられるんですか……?」
ヴェラは肩をすくめた。
「慣れよ。今回だけじゃないでしょ?あいつは不死身って呼ばれてる分、いつも危険と隣り合わせ」
口元だけ笑ってみせる。
「この程度で心配してたら、身が持たないわ」
リグが息を吐いた。
「……やはり一旦、帝都に戻るしかないか。ここに居続けても、意味がない」
エイベルが頷く。
「ギルドに報告、それと探知魔法の使える魔法士へも依頼しよう」
ヴェラは懐から薄い板状の魔符を取り出した。
金属の縁に、連絡用の刻印が刻まれている。
「一つ、先にやっておくことがあるわ」
魔符に軽く指先を滑らせ、魔力を流し込む。
刻印が淡く光り、空気がほんの僅かに震えた。
「――不死身、帝都近郊廃砦の地下にて崩落に巻き込まれ地下へ落下。救出困難、生死不明。
黒霧は未確認、但しアンデッドと遭遇。
手詰まりのため一旦帝都へ戻る」
魔符の光が静かに沈む。
ヴェラはそれをしまい、振り返った。
「じゃ、決まりね。一旦帝都に戻るわよ」
セリナが名残惜しそうに地下へと続く入り口見て、それから立ち上がる。
「ドーレイ、絶対……」
その言葉は最後まで続かなかった。
代わりに、胸のところでぎゅっと手を握る。
トゥリオは一歩遅れて歩き出しながら、ヴェラとセリナの背中をちらと見た。
そして何も言わず、弓の位置を直した。
廃砦の崩れた通路に、しばし誰の気配もなくなる。
風が吹き抜け、地下へと冷たい空気を流していった。
◇
再び、地下。
マルナのまぶたがわずかに震えた。
短い吐息がもれ、ゆっくりと目が開く。
「……ここは……?」
掠れた声。
俺は壁にもたれていた身体を起こし、視線を向けた。
「ようやくお目覚めか。落ちた先だ」
マルナは自分の体勢を確認し、それから上方を見上げた。
闇しかない。
「私たち、助かったの?」
震えた声でマルナが呟くように尋ねる。
「今こうして話してる時点で、な」
マルナは深呼吸するように、小さく息を吐いた。
「……普通なら、今ごろ二人とも潰れてるはず」
「普通じゃないから、生きてる」
立ち上がろうとして、ふらつく。
まだ落下の衝撃が残っているのだろう。
俺は手を差し出した。
マルナは一拍置いて、その手を取る。
「灯りを出せるか」
「もちろん」
マルナが掌を掲げる。
「――トーチ」
淡い光球が生まれ、空洞の天井へ向かって浮かび上がった。
全体を照らすことはできず、感じ取っていた通りのかなり広い空間が広がっていた。
岩壁は丸く削れ、ところどころに黒い鉱脈の筋が走っている。
天井は高く、崩落の穴は見えない。
地面には、自然にできたものとは思えない平坦な一角――
長年のうちに磨かれたような、広い“床”があった。
「かなり広い空洞だな」
俺は周囲を一周見渡した。
「上へ戻る道は……少なくとも、見える範囲にはねぇか」
「少し休んだら辺りを見て回ろう」
ドーレイは背嚢から水袋を取り出して、マルナへ手渡す。
「ありがとう」
マルナは礼を伝えて、喉を潤す。
――小一時間後
二人は上へ登る方法を探していた。
マルナは壁に手を当て、目を細める。
「……岩の層が不自然です。どこかに“抜け”があるはず」
魔法の光を少しずつ移動させながら、二人で空洞の縁を探っていく。
やがて、岩の影の奥に、人が一人通れるほどの隙間を見つけた。
風が、そこから微かに出入りしている。
「見つけたわ。自然の亀裂に見えるけど、削った跡がある」
マルナが指でなぞる。
確かに、刃物か何かで均されたような線が幾つか走っていた。
「どこに続いてるかわかんねぇけど――」
俺は肩をすくめた。
「行くしかねぇな」
二人は縦一列になり、狭い通路へと体を滑り込ませた。
◇
通路はしばらく、きつい上り坂が続いた。
岩肌は湿っていて、ところどころ小さな水の流れが足元を横切る。
透明度が高く、匂いもない。岩の層から自然にしみ出した水。
「飲めそうだな」
舐めてみると水質の良い地下水のようで、水袋へと補給しておく。
「そんな簡単に舐めて大丈夫……?」
「万が一毒性があったとしても効かない体質なんだ」
「毒耐性のスキル持ち?珍しいわね」
「……そんなとこだ」
トーチの光が、岩の水膜に反射してちらちらと揺れた。
息が白くなる。
温度が、ほんの少しだけ上がった気がした。
汗の代わりに、皮膚の上にじっとりとした湿気がまとわりつく。
通路の途中から、岩壁に不自然な直線が混じり始めていた。
「……空気、変わってきましたね」
マルナが呟く。
やがて、通路の先がほのかに明るくなった。
マルナのトーチとは違う、白い光。
俺たちは足を止め、互いに目を見合わせる。
「魔法灯だな」
「この深さで? ということは……」
最後の一段を登り切ると、視界が開けた。
そこは、先ほどの空洞よりは狭いが、天井が高く整えられた空間だった。
壁には、一定間隔で魔法灯が埋め込まれている。
淡い白光が、石造りの床を照らしていた。
そして、その中央に――石で組まれた建物があった。
四角い基壇の上に、柱が六本。
その奥に、低い屋根と扉。
扉の上には、擦り減った紋章が刻まれている。
祈るような姿の人影と、円環と、何かの角。
マルナが息を呑む。
「これは……神殿?」
床には、古い祈りの跡らしき擦り傷。
柱の根本には、供物台と思しき窪み。
だが長い年月のうちに砂と埃が積もり、色という色はほとんど剥がれ落ちていた。
「やれやれ」
俺は首を回した。
「砦の地下に洞窟、そのまた下に神殿か。どんだけ秘密を重ねてんだか」
口調とは裏腹に、胸の奥が少しだけ高鳴る。
嫌な予感と、戦いの前の静かな熱が混ざった感覚。
「まあ、行くしかねぇよな」
二人は慎重に近づき、神殿の扉を押し開けた。
軋む音は思ったほどせず、むしろ誰かが最近、手を入れているような滑らかさだった。
中は静かだった。
柱が左右に並び、奥には高い祭壇。
祭壇の背後には、壁一面を覆うように古い壁画が描かれている。
角を持つ影が、何かを地に押し込めている図。
空気の匂いが変わる。
血と獣と、獣でも人でもない何かの匂い。
マルナがぴたりと足を止めた。
「……あれは……!」
視線の先、祭壇の下段。
そこに、何かが座っていた。
巨大な背中。
人の倍はある肩幅。
毛皮に覆われた背筋が、呼吸に合わせてわずかに上下している。
頭には、湾曲した二本の角。
牛の頭と、人の身体。
その巨体に、黒鉄の鎧が半ば食い込むように装着されている。
片手には、床に届くほどの大斧。
ミノタウロス――迷宮の上位種。
マルナが小さく息を呑んだ。
「ミノタウロス……!? 神話の世界の魔物が……」
その言葉に反応したかのように、巨躯がゆっくりと立ち上がる。
蹄が石床を鳴らし、鼻先から荒い息が漏れた。
ドス黒いオーラを漂わせ、赤い瞳がこちらを向き、空気が一段重くなる。
俺は一歩前に出て、剣の柄に手をかけた。
「……やっぱり、平和な散歩じゃ終わらねぇよな」
マルナが後ろで動揺しながら呪文の前段を紡ぎ始める。
「あれが本当にミノタウルスなら、ここは引くべきでは……?」
魔法灯の光が、巨牛の鎧と俺の首輪を同時に照らした。
ミノタウロスの喉から、低い咆哮がほとばしった。
石造りの神殿が震え、古い壁画の砂がぱらぱらと落ちる。
戦いの幕が、静かに上がった。




