第69話 静寂の果て、闇が口を開く
地下へ続く穴は、思ったよりも深かった。
崩れた床石の下、風の流れは下へと吸い込まれている。
先頭に立ったリグが松明を掲げ、仲間に短く指示を出した。
「足元、気をつけろよ。段差が多い」
マルナが掌に光を宿す。
灯りの魔法――トーチ。
淡い球体が生まれ、壁面を滑るように進んだ。
石ではなく、途中から岩肌に変わる。砦の基礎の下は、まるで天然の洞窟だった。
湿った空気が頬を撫で、遠くで水滴の音が絶えず響いている。
「……砦ってより、洞穴ね」
ヴェラが矢筒を押さえながら呟く。
セリナも掌に小さな光を浮かべて続いた。
「空気が重いです……ここ、何か――」
「喋るな。音が跳ね返る」
リグが短く制した。
確かに、声が壁にぶつかって、すぐ後ろから返ってくるように響いた。
この空間そのものが、何かを拒んでいるようだった。
ドーレイは剣の柄に指を添え、無言で歩を進めた。
暗闇の中でも、輪郭がかすかに見える。
目に映るというより、光の代わりに“気配”で形を捉えている感覚――
オーラを扱うようになってから、身体能力だけでなく感覚まで研ぎ澄まされていた。
「……奥に広い空間があるな」
低く呟くと、リグが振り返った。
「感覚か?」
「まあな」
リグが短く頷くと、隊列を整え直した。
前衛二人――リグとエイベル。
その後ろにマルナとセリナ。
最後尾にドーレイとヴェラ、そしてトゥリオ。
松明と魔法の光が点のように連なり、闇の中を滑る。
やがて、空気の匂いが変わった。
湿気の中に、焦げた鉄の匂い。
光が届く先、広間の中央に、黒ずんだ骨が積み上がっている。
「止まれ」
リグが手を上げる。
骨の山が、ゆっくりと動いた。
膝が軋み、頭蓋が鳴る。
骸骨が八体、ゆっくりと立ち上がった。
錆びた剣、欠けた盾。眼窩には、青白い光が灯る。
「アンデッドだと……!?」
エイベルが盾を構え、マルナが呪文を紡ぎ始めた。
リグの刃が一体の胴を割るが、骨が音を立てて繋がる。
斬っても立ち上がる。
「厄介だな……!」
ヴェラの紅い矢が、骸骨の喉を射抜いた。
次の瞬間にはもう一本、頭蓋の中心を正確に貫く。
骨が砕けて崩れ落ちた。
ドーレイは前に出る。
掌を裂き、血を滑らせる。
赤黒い光が剣に宿り、唸るように震えた。
骸骨が三体、同時に向かってくる。
ひと振り。
軌跡が弧を描き、骨の列が一瞬で散った。
青白い灯りが空気に溶けて消える。
「化け物じみてやがる……」
リグが息を呑む。
だがまだ残りは三体。
セリナが一歩前に出て、掌を胸の前で組んだ。
「――ホーリーライト!」
白い光が弾ける。
それは焚火でも陽光でもない、清浄な光。
骸骨たちは呻き声を上げる暇もなく、白炎の中で塵へと崩れた。
静寂。
広間に残ったのは、骨の粉と冷えた空気だけだった。
魔法の光がゆらめき、天井の岩を照らす。
リグが息を吐き、剣を収めた。
「……まいったな。あんたらがいなけりゃ、危なかった」
ドーレイは答えず、足元の焦げ跡を見つめた。
骨の奥、燃え残った欠片に――黒い靄のようなものが、わずかに蠢いた。
◇
トゥリオが弓を背負い直しながら、静かに口を開いた。
「先に進む前に、俺が罠を確認してくる。斥候は慣れてる」
リグが眉をひそめる。
「単独で行く気か?」
「すぐ戻る。十数分だ」
そう言うと、彼は一人で広間の奥へ消えていった。
リグは溜息をつき、剣の鍔を指で叩いた。
「……仕方ねぇ、少し休憩にしよう」
岩壁に背を預け、全員が息を整える。
冷たい湿気が皮膚に張り付き、火を焚く気にもなれない。
セリナが膝を抱え、小さな光を掌で弄んでいた。
「……落ち着かないです」
ヴェラは短く頷く。
「わかる。でも動くよりはマシ。あの男が戻るまではね」
小一時間が過ぎた。
風の音だけが響く。
「……遅いわね」
ヴェラの声に、リグが顔を上げた。
「どこまで行ってるんだ。通路が入り組んでたのか……」
その時、足音。
トゥリオが戻ってきた。
額にわずかな汗を浮かべているが、表情は変わらない。
「問題なしだ。罠も魔物もいなかった。奥は下へ続く細い道だけだ」
「そうか。なら進もう」
リグが立ち上がり、松明を掲げる。
◇
骸骨たちが崩れ落ちた後の広間を抜け、さらに奥へ進む。
壁に刻まれた古い紋章は削れて判別できない。
リグが慎重に松明を掲げた。
「……この先、空気が動いてる。抜け道か、別の区画か」
「行くしかないな」
ドーレイが短く言い、隊列を整える。
通路は緩やかに下り坂になっていた。
足元の岩は湿って滑る。
天井の苔が微かに光を帯び、ぼんやりとした緑の筋を作っていた。
風が通り抜けるたび、どこか遠くで水の滴る音が反響する。
「……嫌な感じね」
ヴェラが呟く。
セリナも頷いた。
「音が……近いのに遠くで響いてるみたいです」
ドーレイは周囲を見渡しながら進む。
「足元、段差になってる。気をつけろ」
リグが前を確認し、全員が距離を詰める。
その瞬間――。
低い音が響いた。
岩のきしむ音。
次の瞬間、通路の床が一斉に沈んだ。
「――っセリナ!」
ドーレイが反射的に手を伸ばす。
セリナの足元が崩れ、体が傾ぐ。
その腕を掴み、外へ押し出した。
だがその次の瞬間、ドーレイの立つ足場も崩れる。
「ドーレイっ!」
掴んだ手がすり抜ける。
マルナの足元も割れた。
リグが叫ぶより早く、二人の姿が崩落の縁に消えた。
「ドーレイ! マルナ!」
ヴェラが身を乗り出し、手を伸ばす。
砂と石片が落ち、底なしの闇に吸い込まれていく。
崩落の音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。
魔法の光を投げても、途中で霧のように掻き消える。
底は見えない。
声を張っても、返事は返ってこなかった。
◇
崩落から数時間後。
「……くそ、深すぎる。ロープも届かねぇ」
リグが舌打ちし、拳を握る。
ヴェラは顔を上げ、静かに息を吐いた。
「待つしかない……けど、下から気配は感じない。無事なら、すぐ動くはずよ」
セリナが膝をつき、崩れた縁を見つめる。
「私のせい……私が――」
ヴェラが肩に手を置いた。
「違うわ。あいつが選んだ。アンタを掴んで、そうした」
リグは頭を押さえ、短く指示を出す。
「ここで野営は危険だ。崩落が続く。……一度、戻って再編だ」
トゥリオが頷く。
「ギルドに報告するしかない。下の構造が不明すぎる」
ヴェラは最後にもう一度、穴の底を覗いた。
風が吹き上がり、赤い髪を揺らす。
その風は冷たく――まるで、底から誰かが息を吐いたようだった。
「不死身……ちゃんと戻ってきなさいよ」
小さく呟き、踵を返す。
残った光がゆらめき、やがて闇に吸い込まれた。
黒い穴の奥では、確かに――何かが、目を開けた。




