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第68話 風止む刻、黒霧の胎動

 朝の光が石畳を照らし、街の喧騒が早くも動き出していた。

 《旅人の冠亭》の窓を開けると、果実を売る声とパンを焼く匂いが流れ込む。

 帝都――バル=ゼルンの朝は、砂の街とは別の熱を持っていた。


 「さて、情報収集ね」

 ヴェラが背の矢筒を整えながら言う。

 「市場だけ見てても、欲しい情報は出てこない。闇市をあたるのが一番早いわ」


 「闇市……?」

 セリナが不安そうに眉を寄せた。

 「……なんか嫌な雰囲気です」

 「大丈夫。私たちの首輪の色を見て、仕掛けてくる連中はそうはいないわ」


 金の輪がヴェラの首で光を返し、隣のドーレイの白金がその上を抜けて煌めいた。

 首輪の色は――この国では、何よりも分かりやすい“格”の象徴だった。


 ◇


 裏路地は、昼でも薄暗かった。

 主通りの石畳が砂埃に変わり、屋台の影が細く伸びている。

 油の匂い、古い果実の腐った甘さ、鉄の錆の匂い。

 足元では汚れた水が溝を流れ、猫のような生き物が魚の骨をくわえて走り去った。


「ここが……」

 セリナが呟く。

 「そう。表の市場じゃない、別の流れの市よ」

 ヴェラは迷いなく進み、黒塗りの木扉の前で立ち止まった。

 上に掲げられた看板は半分剥げて、文字も判別できない。

 だが、扉の前にはそれなりの出入りがあり、商談の声が途切れない。


「ここね。ゼルハラで買った情報だと、この酒場に情報屋がいるわ」


「そこまで準備してたのか?さすがだな」


「用意周到が信条なの」

 セリナがぽかんとした顔で言う。

 「ヴェラさん、いつのまに……?」


 ◇


 中は煙草と酒の匂いで満ちていた。

 陽の届かない奥で、蝋燭の光がゆらゆらと揺れている。

 木の床は油を吸って黒光りし、低い笑い声が交錯する。

 片隅では楽師が古びた弦を弾き、荒んだ旋律が空気を撫でていた。


「おい、見ねぇ顔だな」

 カウンター脇のごろつきが、ドーレイの肩を小突こうとした。

 が、その目が首輪に触れた瞬間、表情が凍る。

 白金の輪が蝋燭の光を受けて鈍く光った。

 男は何も言わず、そそくさと奥へと引っ込む。


 ヴェラは奥の席を指し示した。

 「いたわ。灰色の外套――噂通りね」


 机には黒い手袋をした男。目元に布を巻いていた。


「黒霧の出る廃砦の場所と、最近の噂を知りたい」

 ヴェラが銀貨を一枚、机に置く。

 男は触れもせず、短く頷いた。


「ここから南西、一日ほどの距離にある。夜になると黒い霧が出るらしい。

 最近、行方不明が続いてる。冒険者ギルドもここ最近調査依頼を出してるが、まだ何もわかっちゃいねぇ」

 男の指先が机を叩いた。

 「ただ……あそこには、何かが“起きてる”。それだけは確かだ」


「十分よ」

 ヴェラが立ち上がる。

 ドーレイは静かに呟く。

 「すんなり情報が買えたな。準備して向かうか」

 「誰のおかげかしらね」

 「わかってるよ」


 三人が扉を出ると、外の空気は湿っていた。

 背後の酒場の中では、弦の音が途切れ、奥の席から一人の男が出てきた。


 「――あの女……間違いない。」


 ◇


 翌朝。

 まだ街の喧騒が動き出す前、三人は帝都を後にした。

 バル=ゼルンの高壁を背に、南西の砂原へ。

 風が冷たく、砂馬の蹄が静かに鳴る。


 道は荒れ、風紋の上に乾いた草が散っている。

 陽が高くなるにつれ、空気が焦げるように熱を帯びた。


「……静かだな」

 ドーレイの呟きに、ヴェラが手綱を引いた。

 「砂原で“静かすぎる”は、あまり良くない兆候よ」


 その言葉の直後、地面がわずかに波打った。

 砂を割って現れたのは、甲殻を纏った蟻の魔獣――デザートアント。

 巣から離れて哨戒中だったのか、五体ほどが半円を描くように迫ってくる。


「任せて」

 ヴェラが鞍から軽やかに降り、弓を構えた。

 次の瞬間、矢の先に淡い光が灯る。

 紅いオーラが矢羽に沿って走り、空気が微かに鳴った。


 放たれた矢は一直線に飛び、魔獣の喉を正確に貫いた。

 続けざまにもう一本、別の個体の尾を裂くように命中。

 ドーレイが目を細めた。

 「矢にオーラを纏わせたまま射れるのか。器用だな」

 ヴェラは弦を緩め、口角を上げる。

 「私はこれが得意なの」


 ドーレイも剣を抜き、掌をわずかに裂いて血を滑らせる。

 赤黒の光が刃を包み、跳びかかってきた個体ごと残りを一閃。

 砂が赤黒く散り、風が戻る。


 「ふぅ……この辺りは砂蟻の巡回路でもあるのね。巣に近づくと数が増えて危険だわ」

 「ありがたい偶然だ。肩の慣らしにはちょうどいい」

 セリナが顔をしかめつつも笑った。

 「一応デザートアントって、結構危険な部類なんですけどね……」


 ◇


 夕方。

 西陽が赤く砂を染め、遠くに黒ずんだ影が見えた。

 崩れた塔、倒れた石壁。

 風が抜けるたびに、低い唸りのような音が響く。

 ――目的地、廃砦だった。


「夜までは休むぞ」

 ドーレイが砂馬を下りる。

 結界符を四方に立て、風除けの幕を張る。

 夜は静かだった。黒い霧は現れない。

 代わりに、風の音だけが遺跡を撫でていた。


 ◇


 翌朝。

 陽が砂丘の縁を越え、砦の外壁が白く冷たく光った。

 風は乾いているのに、遺構の周りだけ肌にまとわりつく湿りがある。

 石積みの隙間からは、夜の気配がまだ抜けきっていなかった。


 近づくほど、誰かが張った痕跡が見えてくる。

 砂に沈まないよう固めた踏み跡、目立たない位置に打たれた目印杭、風下に撒かれた匂い消し。

 俺たちは合図だけで陣形を狭め、正面ではなく半周回って見通しの効く浅い鞍部から砦の前庭を覗いた。


 そこで、気配が動いた。


 「――止まれ」


 日陰から四つの影が滑り出た。

 先頭の男は肩まで伸びた灰髪をひとつに束ね、革の肩当てには磨き込まれた刃の跡。

 その隣には杖を携えた女、背後には弓を構える青年と、盾を抱えた壮年の男。

 どの装備も使い込まれているが、無駄がない。

 砂を踏む音ひとつにも、戦い慣れた静けさがあった。


 「ギルド所属だ。ここの調査区は俺たちが請けている。……お前らは?」

 声に敵意はない。

 俺が首輪を示すと、相手は少し驚いたあとに肩がわずかに落ちた。


 「冒険者ギルド所属、リグ。こっちはマルナ、エイベル、トゥリオ。

  三日前から夜霧待ちだが、何も出ねぇ」


 腰に吊るした革札が陽に反射した。

 刻まれた数字は〈三〉。

 一級から五級まである、冒険者の等級札――冒険者の多くは最初の等級である〈五〉か、その上の〈四〉で止まる。

 〈三〉ともなれば、依頼を選べる上位層だ。

 地方では滅多に見ない札だった。


 「こっちは帝都のとある貴族筋からの依頼だ。黒霧の調査」

 俺が答えると、リグは短く頷いた。


 「なら話が早い。状況を共有しよう」

 こちら側も名乗った後、杖を持つ女――マルナが前に出て、砦の壁を指した。

 「夜霧が出るという話だったけど、空気の流れが逆なの。

  風は通ってるのに、音が抜けない」


 確かに、風の通るはずの砦の前で、耳の奥が妙に重い。

 息を吸うたび、地の底で鈴を逆に鳴らすような微かな共鳴がした。


 「中は?」

 ヴェラが訊くと、リグは顎で合図を送る。


 弓の青年――トゥリオが、崩れた床石の一角を指した。

 「昨日、ここを片づけたら――下に空洞があった。

  風が吸い込まれてる。多分、地下だ」


 エイベルが盾を押し当てると、瓦礫がずれて砂が流れ落ちる。

 黒い穴が口を開け、そこから冷気が立ちのぼった。

 空気の匂いが変わる。鉄と血の混じった、古い匂い。


 マルナが囁く。

 「……霧は、ここから上がるのかもしれない」


 俺は肩を回し、剣の柄に手を置いた。

 「また砂の下かよ」


 暗がりの奥で、風がひときわ強く吹き抜けた。

 冷気の底に混じるのは――湿った息。

 誰かが、そこにいるような気配だった。

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