第67話 砂の果て、帝都の光
夜明けの砂は、まだ冷たかった。
空の端が薄紅に滲み、荷車の影がゆっくりと伸びていく。
ミルド商会の列が動き出す。鈴の音と砂の軋む音が重なり、遠くまで伸びた車輪の跡が風に消えていった。
「今日中に次のオアシスへ入れるだろう」
ローベンが声を上げる。
砂馬の鼻先が陽を浴びて白く光った。
俺たちは列の最後尾につき、砂の海をゆっくり進んだ。
昨日よりも風が柔らかく、空気に水の匂いが混ざっている。
やがて、地平の先に薄緑が滲み始めた。
「……あれね」
ヴェラが額の汗を拭う。
遠くに椰子とテントの群れが見えた。
リヴェンほどの規模ではないが、帝都とゼルハラを結ぶ交易路の中継地――
商人と冒険者が絶えず行き交うオアシスだった。
◇
オアシスの中心には浅い泉、周囲には仮設の市場と休息の天幕が並んでいた。
水を汲む人の列、荷を下ろす駄馬の声。
砂の上には色とりどりの布が広がり、果実と香辛料の匂いが重なる。
外縁では、入りきれない商隊がそれぞれ焚火を囲んでいる。
俺たちも今回は宿を取らず、ミルド商会とともに野営することにした。
「ねぇ、せっかくだし市場を見に行こうよ」
リナが俺の腕を引いた。
帝都で育った少女とは思えないほど、砂の風に馴染んだ笑みだった。
「もう飽きないのか? 帝都にも店は山ほどあるだろ」
「旅先の市は別。――ほら、あそこ、ゼルハラの香辛料が安いの!」
セリナが目を丸くする。
「香辛料が……あんなに?」
ヴェラは苦笑して肩をすくめた。「行くしかないわね」
四人で市場へ入った。
天幕の下には帝都の織物、ゼルハラの香草、東方の果実酒。
商人たちの声が砂の上で交錯し、色と匂いで空気が満たされる。
リナは交渉慣れしていて、果実をひとつ買うたびに値をまけさせていた。
「帝都の相場なら倍よ」
「へぇ、交渉上手だな」
「だてに父上の商隊で育ってないの」
そう言って笑う横顔は、子どもらしさと大人びた自信が同居していた。
◇
夜。
砂の温度が落ち、焚火の輪が幾つも灯った。
湯気と香辛料の香りが漂い、護衛たちが簡単な夕食を囲む。
スープの鍋、焼き立てのパン、砂鷲の燻製肉、そして干し果実。
風が穏やかで、夜空には無数の星。
「明日には帝都――バル=ゼルンの門が見えるだろう」
ローベンが言うと、護衛たちがざわめいた。
長い旅の終わりが近いことを、誰もが感じていた。
セリナが焚火越しに顔を上げる。
「バル=ゼルン……どんなところなんですか?」
ヴェラが口元をゆるめた。
「ゼルハラよりずっと栄えてる街よ。金も権力も、全部が集まる場所」
「……行くのは初めてなんです。なんだか緊張しますね」
「観光じゃないわ。依頼を忘れないで」
「えへへ……そうでした」
笑いながらも、セリナの目は火よりも明るかった。
リナはそれを見てくすくす笑う。
「そんな顔してたら、すぐ田舎者だってばれるよ」
「ひ、ひどいです!」
火の粉がふっと舞い、輪の笑い声に紛れた。
ローベンは杯を手に、静かに空を見上げた。
「バル=ゼルンは眩しい街だ。だが、影も深い。……気をつけなさい」
その声には、旅を重ねた者の静かな重みがあった。
◇
翌朝、まだ陽の赤が低いうちに出発した。
商隊の列が砂丘を越え、砂馬の息が白く上がる。
道の両脇に、別の商隊の旗がいくつも見えた。
帝都が近い――それだけで、砂の道が賑わう。
昼を過ぎると、遠くに霞の中で光が瞬き始めた。
高くそびえる尖塔群と、魔導灯の帯。
陽が傾く頃、白灰の石都――帝都バル=ゼルンが姿を現した。
門前には人と荷車の列。砂の旅人、僧、吟遊詩人、傭兵、商人。
金属の匂いと香辛料の匂いが混じり、声の波が街に吸い込まれていく。
「……でかいな」
ドーレイが低く呟く。
ヴェラが感嘆の息を吐く。「ゼルハラとは桁が違うわ」
セリナは言葉も出ずに見上げていた。
その隣でリナが笑う。
「ようこそ、帝都へ。不死身さんたち」
◇
門を抜けると、そこは光の渦だった。
石畳に鉄の車輪がきしみ、通りを埋め尽くす人の流れ。
屋台の呼び声、果実酒の香り、どこかで演奏される弦の音。
建物は三階建てが並び、窓には金糸の布が垂れている。
光が乱反射し、空気まで金色に見えた。
ローベンが馬を止め、こちらへ向き直った。
「不死身殿。砂鷲一体の相場は金貨二。それを三倍で六。護衛分を合わせて――金貨八を商会口座から振り込ませた」
「さすがにもらいすぎだ」
「娘の命に比べれば安いものです」
「……なら、三人で分ける」
ヴェラが頷き、セリナが嬉しそうに笑った。
ローベンは帽子を軽く傾け、革包みをひとつ差し出す。
「それと――これを受け取ってほしい。**商印札**だ。
青銅にミルド商会の印を打ってある。帝都でもゼルハラでも、これを見せれば“恩人”として扱う。倉口の手続きも早くなる」
包みの中には、小さな楕円の青銅札。
片面に双環の印、もう一面に砂馬の意匠。縁には細い刻みが巡っている。
「助かる」
「依頼が終わったら、ぜひ商館へ。ミルド商会は、恩を忘れません」
リナが荷車の上から手を振る。
「また会おうね!」
セリナが手を振り返し、ヴェラが軽く笑う。
ドーレイは顎を上げて短く答えた。
馬車の列が遠ざかり、喧噪の中に消えていった。
◇
日も暮れ、人波が金の光に染まる頃。
三人は城門からほど近い宿を見つけた。
外壁に灯りが並び、扉の上には金の王冠の紋章。
宿の名は《旅人の冠亭》。
部屋を取り、荷を下ろす。
日が落ちきると、下の酒場で夕食を取った。
皿には香草で焼いた砂豚の肉、葡萄酒の煮込み、甘いパン。
さらに、白身魚のソテーが湯気を立てていた。
港町から運ばれてきたばかりの海魚だという。
帝都から南へ、砂馬で一日ほど行けば港町に至る。
その港町には魚や異国の小麦が集まり、それがバル=ゼルンの食卓を支えていた。
肉よりも淡い香り、焼かれた皮の塩気。
そして小麦のパンは、ゼルハラの乾いた粉とは違い、
噛めばほんのりと甘く、ふっくらと温かい。
ドーレイはその柔らかさに少し驚いた。
「魚……本当に海の味がする」
セリナが目を輝かせる。
ヴェラが笑った。
「港が近いのよ。南の海から一日でここまで運べる。
砂の街じゃ、まず味わえないわね」
「……なるほど。贅沢な土地だ」
ドーレイはパンを割り、肉と一緒に口へ運んだ。
葡萄酒の酸味と混じって、柔らかい香りが鼻を抜ける。
「都会の味ね」
ヴェラが盃を傾ける。
セリナが笑う。「明日は準備と情報集めですね!」
「動く前に、街の空気を掴んでおく。……あすは歩きだ」
三人は盃を合わせた。
窓の外では、バル=ゼルンの灯が星よりも多く瞬いていた。
音と光と人の匂いが、夜を金色に染めていく。
――砂の果てに、世界の中心があった。




