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第66話 風裂きの護符、砂の静寂

 夜の名残が砂に薄く張りついていた。

 リヴェンの水面は朝の風に震え、椰子の影が細く揺れる。荷車の列がゆっくりと動き出し、鈴の音と車輪の軋みが重なった。


「出すぞ――前、間を詰めろ。砂馬は後列に繋げ」


 ローベンの声が流れ、ミルド商会の旗がひるがえった。俺たちの砂馬は手綱を長く取られ、荷車の陰に入る。鼻先が退屈そうに上下した。


「歩が……遅いわね」


「荷が多いからな。まあ、緊急ってわけでもないし、これぐらいはいいか」


 俺は肩を回し、砂の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。規則正しい車輪の音は、変に心地いいリズムだった。


 思えば――向こうじゃ、いつも駆けていた。終電の蛍光灯、夜明けのエレベーター、鳴り止まない端末。眠気と胃酸の味。

 今、その映像は水に落とした墨みたいに広がって、輪郭を失っていく。


(……向こうの記憶も、少しずつ薄れてるな)


 顔を上げる。視界は砂ばかりだ。風紋が並び、陽光が薄金の波になって押し寄せてくる。

 この果てのない色が、今では落ち着く。


(砂のない生活は……もう想像できねぇかもな)


 前方で砂塵が小さく跳ねた。護衛の一人が槍を立てる。


「前方、砂が割れる! 間を空けろ!」


 荷車が軋み、隊列の真ん中でざわめきが走った。砂の下から低い震えが上がってくる。地面が呼吸を変える、あの嫌な前兆だ。


 次の瞬間、砂が噴き上がった。

 岩の角のような顎、鉱石の棘を背負った胴――砂潜獣サンドモール

 荷車の脇に頭を突き上げ、片輪が浮く。護衛の槍がはじかれて折れ、男が砂に転がった。


「荷を守れ! 横から回せ!」


 ローベンの怒鳴り声。護衛が散って囲みを作るが、獣の潜りは速い。砂に潜っては別の場所から突き上がり、車輪を砕こうと狙ってくる。


「……少し、遊んでくるか」


 俺は剣に手をかけた。左の掌を、刃で浅く斜めに裂く。滲んだ血が鍔を伝い、刃に吸い込まれた。

 赤黒いオーラが、剣の表面に薄い炎のように宿る。熱と冷えが同時に皮膚を撫で、砂の匂いが金属へと反転した。


 地面が脈打つ。突き上げの起点――そこだ。

 一歩で砂を割り、低く滑り込む。獣の顎が出る瞬間、剣を水平に。


 閃き一つ。

 絡みつくオーラが軌跡をなぞり、砂煙の中で硬いものが砕ける音がした。

 サンドモールの喉元が割れ、黒い血が細い線になって飛ぶ。巨体は慣性のまま砂に叩きつけられ、背の棘が鈍く鳴った。


 風が一度止まり、すぐ戻る。

 オーラを収める。掌の傷はもう縮み、うっすらと赤い線だけ残った。


「一丁上がりっと。」


 ヴェラが半歩、前へ出かけて止まった。


「必要なかったわね」


 セリナは眉尻を下げ、小さく呟く。


「……ちょっと、かわいそうです。」


 護衛たちは砂の向こうで口を開けたまま立ち尽くし、遅れて歓声が弾けた。


「一瞬で……」「刃が見えなかったぞ」「さすが不死身……!」


 俺は刃を払って鞘に戻す。ローベンが馬上から短く礼を送ってきた。

 隊列は整え直され、速度はさらに慎重になった。砂は相変わらず、ただ息をしている。


 ◇


 陽が傾く前、商隊は小さな窪地に入った。

 荷車を円形に並べ、その内側に焚火がいくつも灯る。結界符が四方でふわりと浮き、澄んだ金属音を一つだけ鳴らした。夜の輪郭が、そこで少し柔らかくなる。


 塩と香草の匂いが立った。

 鍋では豆と穀粒の煮合わせがことこと鳴り、別の鍋では香草と骨のスープが白く濁って湯気を吐く。

 鉄板では薄切りの砂魚の燻製が温められ、脂が滲んで甘い香りになった。

 昼間に仕留めたサンドモールの赤身は、火に遠ざけてじっくり熱を入れられている。意外と臭みはなく、繊維は固いが噛み締めるほどに鉱香のような味が出た。


「これ、甘くて飲みやすいです」


 セリナが小盃の果実酒を口元に隠して笑う。ヴェラがパンを裂きながら肩で笑った。


「飲みすぎないでね。砂は容赦ないわよ」


 俺は少し離れた場所で、スープをひと口。

 香辛料が鼻に抜け、喉の奥が温かく満たされる。

 火の粉がたまに跳ね、砂の上で消えた。


(……思えば、最初は硬いパンと、肉の欠片が浮いた味のしないスープだけだったな)


 牢屋の湿った匂い。闘技場の、砂の冷たさ。

 今は、鍋の湯気の重さが違う。腹が満ちる感覚が、ちゃんと俺の中に居場所を持っている。


(今は――人間らしく食って、眠って、起きてる)


 焚火の輪の向こうで、護衛たちが昼間の一瞬を何度も身振りで再現している。


「こう来てさ――」「いや、見えねぇって」


 笑い声が砂に染みこんでいく。結界符がときおり微かな音を震わせ、夜の境い目を確かめていた。


 ローベンが湯気の向こうから近づいてきた。


「不死身殿、明日は風が荒れるかもしれん。日の出前に出る」


「ああ。了解した」


「少しだが――昼の礼だ」


 手渡されたのは、細い革紐に小さな白銀の羽根が編み込まれた護符だった。

 羽根は砂鷲のものらしく、光にかざすと縁が金色に透ける。


「……砂鷲の羽か」


「そうだ。うちの護衛が作った“風裂きの護符”ってやつだ。

 砂嵐の日に持ってると、風が避けるって言い伝えがある。

 まあ、気休めだがな。魔符の素材にも使える。」


「験担ぎってやつか。悪くねぇ」


 ローベンは笑い、湯気の向こうへ姿を消した。

 輪は賑やかで、俺は静かだった。静かさが、嫌ではない。


 空を見上げる。

 星が乾いた針のように光り、砂はその下で眠っている。

 遠い砂丘の陰で、黒いものが一度だけ揺れた気がした。

 目を凝らすと、風が形を塗り替えて、もう何もなかった。


 火は落ち、湯気は細くなる。

 砂は、夜でも息をしていた。

 俺は外套を肩に寄せ、しばらく火の色を見てから、目を閉じた。

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