第65話 旅中の宴、黒霧の影
砂の色が、遠くで変わった。
白い陽光の下、地平の先にわずかに緑が滲んでいる。
揺らめく蜃気楼の向こうに、オアシス――リヴェンがあった。
そのさらに上空を、小さな影がゆるやかに旋回しているのが見えた。
陽の照り返しで形ははっきりしないが、砂の上に伸びる影がやけに大きい。
鳥にしては高すぎ、翼が重たそうに見える。
セリナが眩しそうに目を細めた。
「鳥……? こんな場所にですか?」
「砂の上に影があるってことは、相当でかいな」
俺は小さく呟き、手綱を引いた。
砂馬が鼻を鳴らす。警戒の仕草だった。
「着いたな。帝都までは……折り返しまでもう少しってとこか」
俺は砂馬を止め、緑と水の匂いを吸い込んだ。
ヴェラは軽く背伸びをし、肩の革鎧を直した。
「ここが噂の中継地、リヴェンオアシス……思ってたより賑やかね」
セリナが瞳を輝かせる。
商隊の鈴の音、香辛料と油の混じった匂いが流れてくる。
砂漠のただ中とは思えないほど、人の熱気に満ちていた。
◇
オアシスの中心には浅い泉が広がり、石造りの水場には旅人の列。
その外縁には宿屋が数軒、木製の看板が軒を連ねている。
荷車を引く男たちが空を指差しながら話していた。
「また来てるぞ、あの砂鷲だ」「最近、柵のすぐ外にまで降りてきやがる」
ざらついた笑い声が混じる。
上を見上げると、あの影が先ほどより低い位置をゆっくりと滑っていた。
「まず宿を取ろう。砂馬も休ませねぇと」
俺たちは一番手前の宿屋《旅人の椰子亭》を選んだ。
天井の低い白壁の部屋、床には藁を詰めた敷布団。
女将が笑いながら鍵と水瓶を渡してくる。
「砂馬は裏の厩舎にどうぞ。井戸の水も汲みたてですよ。
外に出るときは気をつけて。今朝も砂鷲が旋回してたそうでね」
「了解だ」
裏手では老いた厩番が、砂馬の首筋を撫でながら水桶を置いていた。
砂馬は長旅の疲れを吐くように鼻を鳴らす。
俺は毛並みを軽く撫で、手綱を柱に掛けた。
「夜は酒場集合。それまで自由だ」
そう告げると、セリナは「市場を見てきます!」と駆け出していった。
ヴェラは「武具の露店を覗いてくる」と短く言い残し、逆の路地へ消えた。
俺は宿の前で一度深呼吸をして、陽の下に出た。
風が熱を運び、香草と獣皮の匂いが混ざる。
せっかくだ、少し見て回るか。
◇
昼下がりの市場は、人と砂と音の海だった。
布を張った簡易の店が通りを埋め、旅人たちが行き交う。
香辛料の赤と黄、干し果実の黒、磨かれた銅の食器が陽を返す。
行商人の声が重なり、砂の上にリズムのようなざわめきを作っていた。
「香草茶はいかが!」「帝都産の絹だよ!」
呼び声の中を抜けると、砂塵の向こうに柵の外が見える。
そこではキャラバンが野営を張っていた。
荷車の列、護衛の男たちが槍を持ち、焚火の煙が低く伸びている。
――外は魔物の領分だ。
柵の隙間から、何か小さな影が動くのが見えた。
子ども。……あれは。
白い布のワンピース。
柵をくぐって、オアシスの外へ出てしまった少女がいた。
見張りの声が上がる前に、俺は足を踏み出していた。
「おい、危ねぇ!」
砂を蹴り、柵を軽く飛び越える。
オーラを扱えるようになってから身体能力が飛躍的に向上した気がする。
少女が振り向いた瞬間、上空から影が落ちた。
――風を裂く音。
砂鷲だ。デザートイーグル。
翼を広げれば馬車ほどもある巨鳥が、低く鳴きながら急降下してくる。
俺は少女を抱き寄せ、覆い被さるようにして庇った。
砂が爆ぜ、風圧で肌が焼ける。
少女が悲鳴を上げた。
俺は少女の無事を確かめ、背で押し出すように下げた。
そして腰のナイフを抜き、掌を斜めに切り裂く。
滲んだ血が刃に吸い込まれ、赤黒いオーラが瞬時に膨張する。
熱と冷気が同時に走り、砂の匂いが金属に変わった。
「――悪く思うなよ」
一歩踏み込み、右腕を振り抜く。
刃が光を引き裂き、衝撃波のような圧が砂を弾いた。
巨鳥の胸を一閃。肉が裂け、血と砂が混ざり合う。
鳴き声が途切れ、砂鷲はそのまま墜落した。
静寂。
砂塵が落ち着いたとき、少女が呆然と立っていた。
俺は呼吸を整え、刃の光を収める。赤黒いオーラが消え、掌の傷はすでに塞がりかけている。
「大丈夫か」
俺は膝をつき、少女の肩に手を置いた。
小さな身体が震えている。
瞳は琥珀色で、涙が砂に落ちて消えた。
「こ、怖かった……」
「もう大丈夫だ。……砂も息してる。お前が泣いたら、砂も心配するぞ」
少女が目を瞬かせ、鼻をすすった。
そのとき、槍を構えた護衛が数人、砂を蹴って駆けつけた。
「リナ! お前、なんてことを!」
先頭の男が少女を抱き寄せ、俺と砂鷲の死骸を見比べる。
護衛の一人が、傷口の浅さと切断の正確さを見て息を呑んだ。
「……まさか一撃で。並の冒険者じゃ歯が立たねぇぞ」
もう一人が俺の首元を指さす。
「おい、その首輪――プラチナだ!」
ざわめきが走った刹那、年配の男が息を切らして到着した。
浅黒い肌に銀髪が混じり、金糸の縁のマント、胸には商会の紋章。老練な目。
「命の恩人だな……助けてくれたのか」
「ああ。たまたまだ」
男は深く頭を下げた。
「私はローベン・ミルド。この子の父で、ミルド商会の主をしている」
ローベンは少女の膝に擦過傷を見つけると、携帯の清水で砂を流し、薬草膏を塗った。
俺の掌にも視線を落としたが、閉じた傷を見て黙った。
護衛の一人が、ためらいがちに口を開く。
「お名前を、伺っても……?」
俺は短く息を吐き、名乗った。
「ドーレイだ」
護衛たちの目が一斉に見開かれる。
「ドーレイって……ゼルハラの不死身! 本物か」「闘神を倒したっていう……!」
ローベンは驚きを呑み込み、静かに頷いた。
「今夜、うちの陣で礼をさせてくれ。宿の酒場ではなく、商隊の卓で。
……こいつは相場の三倍で買い取らせてもらおう、肉ももったいないからな」
その視線の先では、護衛たちがすでに砂鷲を解体していた。
刃が骨を割る音が響く。砂の上に赤い血が広がる。
「仲間が二人いる。三人で伺おう」
「歓迎するとも」
ローベンは微笑み、娘のリナの頭を撫でた。
◇
夜。
オアシスの外れ、キャラバンの野営地には円形の焚火がいくつも灯っていた。
香辛料と果実酒の香りが夜風に混ざり、打楽器が砂を震わせる。
その中心に、先程仕留められた砂鷲の肉が串に刺され、じゅうじゅうと焼かれていた。
皮はこんがりと焼け、脂が滴り、火の上で爆ぜるたびに香ばしい匂いが弾けた。
塩と香草で下味をつけた肉は表面が金色に光り、噛めば弾力の中にわずかな甘みがあった。
その隣では鍋に砂鷲の骨と香草のスープが煮立っている。
白く濁った湯気が夜気に混ざり、温かな香りが漂った。
「改めて、礼を言う。不死身殿」
ローベンが盃を掲げる。
周囲の護衛たちも次々と盃を上げ、声が重なる。
「不死身に、乾杯!」
盃の音が重なり、焚火の火が跳ねる。
ヴェラは苦笑しながら盃を受け取り、セリナは照れくさそうに笑っていた。
俺は静かに酒を口にした。香辛料の辛味と果実の甘みが喉を抜けていく。
「ゼルハラの剣闘士が、柵の外まで走って命を拾ってくれるとはな。
……恩は忘れん」
「偶然だ。目に入っただけだ」
リナが隣で頷く。
「でも、ありがとう。すっごくかっこよかった!」
俺は苦笑して、頭を軽く撫でた。指に脂が残り、火の匂いが移った。
卓には砂鷲の燻製も並べられていた。
ローベンが布袋に包みながら言う。
「残りは……不死身殿、持っていけ。
うちの職人が仕上げた特製だ。旅の糧になる」
「助かる。味見はもう充分した」
ヴェラが笑い、セリナが口を押さえて小さく笑った。
打楽器が鳴り、砂笛が細く伸びる。
焚火の上では、砂鷲の最後の翼がゆっくりと焦げ落ちた。
ローベンが焚火越しにこちらを見た。
「帝都に向かっているのだろう? うちの商隊も同じだ。
よければ一緒に行かないか。護衛料は払おう」
ヴェラとセリナが顔を見合わせる。
俺は盃を置き、頷いた。
「……道は同じだ。ありがたく乗らせてもらう」
「決まりだな。明日、日の出とともに出発しよう」
ローベンは笑い、護衛たちに合図を送った。
砂鷲の燻製肉が包まれ、香草の香りが夜風に流れる。
砂の夜は温かく、人の声で満ちていた。
遠く、柵の向こう。
誰もいない砂の地平に、一瞬だけ黒い霞が漂ったように見えた。
けれど、次の瞬間には風がそれをさらっていった。
酒宴の音は続く。
砂の街から遠く離れたこの地でも、人は笑い、火を囲んで生きていた。
――黒霧の影に、誰も気づかないまま。




