第64話 金砂の凱歌と旅の灯火
歓声が、砂を震わせた。
アレナ・マグナの砂海が朝の光を返し、旗が一斉に揺れる。審査官の印板が掲げられ、白い光がひときわ強く瞬いた。
「勝者――ヴェラ!」
どよめきが波になって観客席を舐め、石段の継ぎ目まで震えが潜っていく。砂埃が遅れて立ち、焼けた鉄と汗の匂いに混ざった。
俺は肩で息をしているヴェラの背を遠目に見て、口角をわずかに上げた。剣を下げた彼女が観客席へ軽く顎を上げると、さらに声が高まる。
「これでヴェラさんも――ゴールドですね!」
隣でセリナがぱっと顔を輝かせる。白い指が胸の前で小さく結ばれていた。
「オーラも手元に収めた。文句なしだな」
俺が言うと、セリナは頷いてからふと視線を逸らした。
「……あ、ジャレドさん、行っちゃいましたね」
ジャレドは俺たちの列の端を無言で通り過ぎ、片手で汗を拭いながらそのまま通路へ消えた。声も手も振らない。鋭く閉じきった横顔だけが残る。
「あいつも昇格戦が近い。尖ってるだけだ」
俺はそれ以上追わず、砂の上から戻ってくるヴェラを見た。彼女は肩で息をしながらも、勝者の顔つきだった。
◇
夕刻。《赤砂の盃亭》は、扉を開けた瞬間から熱かった。
香辛料の匂いが鼻から喉へ滑り込み、果実酒の甘い香が重なる。鉄板で焼ける肉の脂がぱちぱち弾け、壁に吊られた盃が風でこすれてわずかに鳴った。床板を踏む踵の音、笑い、投げられたコインの音。生きた街の音が、ここに集まっている。
「姐さんの昇格に――乾杯だ!」
「乾杯!」
店主が太い腕で盃を掲げ、客が一斉に応じる。盃の縁がぶつかり合って涼しい音を立てた。
俺たちの卓には、肉の煮込みが鍋のまま運ばれ、表面に薄い油の輪が浮いている。薄焼きパンの焦げ目が香ばしく、刻んだ香草の青い匂いが湯気に混ざった。琥珀の酒が光を吞み込んで、ゆっくり揺れる。
「ヴェラさん、おめでとうございます!」
セリナが盃を両手で掲げる。彼女の頬は赤く、目は水面みたいに明るい。
「ありがと。……浮かれるのは一晩だけにしよう」
ヴェラは笑って盃を軽く当てた。声を張り上げすぎない、いつもの彼女だ。その控えめさが、むしろ火に油を注ぐ。
「ヴェラ! 俺にサインくれよ、ほら、ここに!」
「姐さん、今日の一撃、あれは痺れた!」
どこからともなく一般客と剣闘士が寄ってきて、卓を半ば囲む形になった。差し入れの燻製肉や香草の束、焼き立てのパンが山のように置かれていく。店主が「今日は持ちだ」と笑い、奥から大きな盃をもう一つ持ってくる。
その輪の少し手前で、エルガが盃を一度だけ掲げた。寡黙な男はそれ以上言葉を足さない。けれど、盃を置く角度、目尻のわずかな緩みが、十分な言葉になっていた。
「エルガも、ありがと」
ヴェラが視線で礼を言う。エルガは短く頷いた。
俺は煮込みの鍋を手前へ引き寄せ、木匙で底から混ぜる。肉の繊維がほぐれ、香草が湯面で踊る。セリナは薄焼きパンを裂き、あふれる湯気に目を細めた。
「ほんとに、ゴールド……」
「大袈裟ね、首輪が金に変わるだけよ?」
「ええ、分かってます。でも――嬉しいです」
盃と盃が、また静かにぶつかった。
◇
翌朝、管理棟の廊下はまだ冷えていた。窓から差し込む光が斜めに伸び、埃の粒を見せている。
扉を叩くと、すぐに「入れ」という声が返ってきた。
「呼んだか?」
入ると、ガルマは葉巻に火を付けず、親指と人差し指で転がしていた。机の上は書類の山。紙の縁が乾いた音を立てる。
「来たか、不死身。頼みたい件がある」
「外のか?」
ガルマは答えず、一枚の依頼書をこちらへ滑らせた。蝋封の跡と、帝都印。薄く紙に染みた油の匂い。
「帝都……いや、近郊の廃砦?」
「そうだ。夜になると黒い霧が出る。失踪が重なってる。調査に向かえ。場合によっては――だ」
「黒い霧ね。毎度回りくどい。……魔神か?」
「分からん。帝都近郊に封印なんざ、普通はありえねぇ。けど、最近は普通が通らねぇ」
ガルマは葉巻を咥えたが、火は点けない。目だけが笑っていない。
「うちから出せるのは少ない。アイリスんとこもリュドんとこも手一杯だ。帝都の連中――異端審問官は別で動いてる」
「別?じゃあ依頼主は誰なんだ?」
「……贔屓の御貴族様ってとこだ」
「調査だけで金貨四。交戦で倍。――もし魔神だったら、と考えるとかなり渋いな」
「どうする? 引き受けるか?」
俺は依頼書を畳み、懐に入れた。
「どうせ、他に誰もいないんだろ?」
ガルマは鼻で笑った。
「分かってるじゃねぇか」
葉巻の先にようやく火が灯り、紫煙が細く立ちのぼった。紙と煙の匂いが交わり、部屋の温度が半拍だけ上がる。
俺は踵を返した。
◇
第二訓練場は朝の冷えを残して、砂が指の腹で鳴った。木剣の影が地面に長く伸びる。
「依頼が来た。帝都近郊の廃砦、夜に黒い霧」
俺が言うと、ヴェラは汗を拭きながら短く言った。
「暇だし、私も行くわ」
「帝都! 私も!」
セリナの目がぱっと明るくなり、すぐに真面目な色に戻る。
「ピクニックじゃねぇぞ。出発は明朝。報酬は三等分。――万が一、魔神が関係していると判断したら交戦はしない。一旦引く。いいな?」
「賛成」
「意義なし!」
俺は頷いた。砂の匂いが肺に冷たく入ってくる。
◇
昼前、俺たちはスレイグの工房に立ち寄った。火花の匂いが通りにまで漏れている。
鍛冶場の奥、煤で黒くなった腕が槌を振るうたび、火の粉が空気の色を変えた。金床の上の鉄は赤く息をしている。ドワーフの親方、スレイグは丸太みたいな腕で一度だけ槌を止めて、こちらを見た。
「来たか、不死身」
声は低く、地鳴りのように床を伝う。俺は剣とナイフを抜き、台に置いた。どちらも黒鉄の光を宿し、刃は手入れが行き届いている。
「手入れを頼む」
「傷は浅いな。……お前も鉄みたいに、馴染んできたか」
「悪くねぇ」
スレイグは口元を歪め、砥石を取り出した。石が湿り、金属の匂いが強くなる。
「ジャレドの試合、見に行けないわね」
後ろでヴェラが言う。スレイグの槌の音が律動を刻む。
「あいつに気遣いは不要だろ。――強いやつだ」
俺は答え、刃の縁を指でなぞった。鉄は、今日も機嫌がいい。
◇
翌朝。空はまだ乳白で、砂は夜の冷えを抱えていた。三頭の砂馬が鼻を鳴らす。毛並みは短く、脚は細いがばねがある。蹄が砂を噛んで、音を残さない。
「帝都まで、南西へ四日。途中に小さなオアシスが二つ。一つ目は一日半ってとこだな。」
俺が言うと、ヴェラは頷き、鞍の締め具をもう一度確かめた。セリナは荷を背に、眩しそうに東の空を見た。
「行くぞ」
砂馬が一斉に砂を蹴り、風紋の上を滑るように進む。朝の風が頬を切り、口の中に砂の味が少し入る。遠くに街の白い壁が小さくなり、やがて平らな砂だけになる。俺たちは、影を伸ばしながら進んだ。
◇
一日目の夕暮れ、砂地の緩い窪みを選んで野営を張る。風除けに平たい石を四方へ置き、焚火の位置を決める。空は薄紫から群青へ移り、最初の星が出た。
「結界符、四方」
ヴェラが指先で薄い符を弾くと、それは地面から三十センチほど宙に浮き、微かな光を帯びて静止した。風は符を揺らさない。四つ目が位置についた時、乾いた空気の中に澄んだ金属の共鳴が、ひとつだけ鳴った。鈴と小さな鐘の間のような音。夜の静けさを汚さない音。
「魔物が結界に触れたら鳴る。見張りはいらない」
「見張りなしで……!」
セリナが驚く。ヴェラは肩を竦めた。
「鳴ったら叩き起こす。鳴らなきゃ寝る。それだけ」
「寝る前に食う」
俺は荷から干し肉と数種類の香草、塩、水袋を出した。鍋に水を張り、火を弱く起こす。干し肉を手で割って落とすと、肉の色がゆっくり溶けていく。香草を指で揉んでちぎり、香りを立たせてから入れる。塩は最後だ。湯の縁が小さく息をし始め、油の輪が浮かんだ。
「サンドリザード?」
「他にゃない」
木匙で底から混ぜて味を見る。舌に最初に当たるのは塩、そのすぐ後ろに干し肉の甘さ。香草の青が鼻へ抜け、夜気の冷たさとぶつかって消える。
「……意外とおいしい」
セリナが驚いた顔で割ったパンを浸す。ヴェラも無言で匙を口に運び、わずかに目を細めた。
「あんた、そんな特技持ってたの?」
「火起こして、食材ぶっ込んで、ひっくり返しただけだ。大袈裟だな」
「いつもヴェラさんが準備してくれてたから、てっきりこういうのは不器用だと思ってました」
「偏見だ」
俺は焚火に細い枝をくべた。小さな火が、鍋の底を赤く染める。砂の地熱が足裏から少しずつ逃げ、夜が広がる。結界符は静かに浮かび、時々、風ではないものに触れたかのように、金属の糸のような音をかすかに震わせた。鳴動ではない、ただそこにある存在の音。
「霧は夜に出るんだっけ」
セリナが空を見上げる。星が増えた。
「廃砦の話だ。ここまでは、砂の息だけだ」
ヴェラが横になり、腕を枕にした。
「鳴ったら起こして」
「鳴らさない」
俺は鍋を下ろし、火を弱く落とした。砂の上に座り込むと、背中の筋がやっとほどける。遠くで砂馬が鼻を鳴らした。
結界符の薄い光が四方で呼吸し、夜は深くなる。俺たちは、交代も設けず、砂の静けさに身を預けた。音は鳴らない。風が行き、冷えが来て、眠りが降りる。
砂は、夜でも息をしている。
夜が明けたら、また進む。帝都まで、あと三日。どこかで黒い霧が待っている。
焚火の最後の火点が、砂の底に沈んだ。




