表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/91

第64話 金砂の凱歌と旅の灯火

 歓声が、砂を震わせた。


 アレナ・マグナの砂海が朝の光を返し、旗が一斉に揺れる。審査官の印板が掲げられ、白い光がひときわ強く瞬いた。


「勝者――ヴェラ!」


 どよめきが波になって観客席を舐め、石段の継ぎ目まで震えが潜っていく。砂埃が遅れて立ち、焼けた鉄と汗の匂いに混ざった。


 俺は肩で息をしているヴェラの背を遠目に見て、口角をわずかに上げた。剣を下げた彼女が観客席へ軽く顎を上げると、さらに声が高まる。


「これでヴェラさんも――ゴールドですね!」


 隣でセリナがぱっと顔を輝かせる。白い指が胸の前で小さく結ばれていた。


「オーラも手元に収めた。文句なしだな」


 俺が言うと、セリナは頷いてからふと視線を逸らした。


「……あ、ジャレドさん、行っちゃいましたね」


 ジャレドは俺たちの列の端を無言で通り過ぎ、片手で汗を拭いながらそのまま通路へ消えた。声も手も振らない。鋭く閉じきった横顔だけが残る。


「あいつも昇格戦が近い。尖ってるだけだ」


 俺はそれ以上追わず、砂の上から戻ってくるヴェラを見た。彼女は肩で息をしながらも、勝者の顔つきだった。


 ◇


 夕刻。《赤砂の盃亭》は、扉を開けた瞬間から熱かった。


 香辛料の匂いが鼻から喉へ滑り込み、果実酒の甘い香が重なる。鉄板で焼ける肉の脂がぱちぱち弾け、壁に吊られた盃が風でこすれてわずかに鳴った。床板を踏む踵の音、笑い、投げられたコインの音。生きた街の音が、ここに集まっている。


「姐さんの昇格に――乾杯だ!」


「乾杯!」


 店主が太い腕で盃を掲げ、客が一斉に応じる。盃の縁がぶつかり合って涼しい音を立てた。


 俺たちの卓には、肉の煮込みが鍋のまま運ばれ、表面に薄い油の輪が浮いている。薄焼きパンの焦げ目が香ばしく、刻んだ香草の青い匂いが湯気に混ざった。琥珀の酒が光を吞み込んで、ゆっくり揺れる。


「ヴェラさん、おめでとうございます!」


 セリナが盃を両手で掲げる。彼女の頬は赤く、目は水面みたいに明るい。


「ありがと。……浮かれるのは一晩だけにしよう」


 ヴェラは笑って盃を軽く当てた。声を張り上げすぎない、いつもの彼女だ。その控えめさが、むしろ火に油を注ぐ。


「ヴェラ! 俺にサインくれよ、ほら、ここに!」


「姐さん、今日の一撃、あれは痺れた!」


 どこからともなく一般客と剣闘士が寄ってきて、卓を半ば囲む形になった。差し入れの燻製肉や香草の束、焼き立てのパンが山のように置かれていく。店主が「今日は持ちだ」と笑い、奥から大きな盃をもう一つ持ってくる。


 その輪の少し手前で、エルガが盃を一度だけ掲げた。寡黙な男はそれ以上言葉を足さない。けれど、盃を置く角度、目尻のわずかな緩みが、十分な言葉になっていた。


「エルガも、ありがと」


 ヴェラが視線で礼を言う。エルガは短く頷いた。


 俺は煮込みの鍋を手前へ引き寄せ、木匙で底から混ぜる。肉の繊維がほぐれ、香草が湯面で踊る。セリナは薄焼きパンを裂き、あふれる湯気に目を細めた。


「ほんとに、ゴールド……」


「大袈裟ね、首輪が金に変わるだけよ?」


「ええ、分かってます。でも――嬉しいです」


 盃と盃が、また静かにぶつかった。


 ◇


 翌朝、管理棟の廊下はまだ冷えていた。窓から差し込む光が斜めに伸び、埃の粒を見せている。


 扉を叩くと、すぐに「入れ」という声が返ってきた。


「呼んだか?」


 入ると、ガルマは葉巻に火を付けず、親指と人差し指で転がしていた。机の上は書類の山。紙の縁が乾いた音を立てる。


「来たか、不死身。頼みたい件がある」


「外のか?」


 ガルマは答えず、一枚の依頼書をこちらへ滑らせた。蝋封の跡と、帝都印。薄く紙に染みた油の匂い。


「帝都……いや、近郊の廃砦?」


「そうだ。夜になると黒い霧が出る。失踪が重なってる。調査に向かえ。場合によっては――だ」


「黒い霧ね。毎度回りくどい。……魔神か?」


「分からん。帝都近郊に封印なんざ、普通はありえねぇ。けど、最近は普通が通らねぇ」


 ガルマは葉巻を咥えたが、火は点けない。目だけが笑っていない。


「うちから出せるのは少ない。アイリスんとこもリュドんとこも手一杯だ。帝都の連中――異端審問官は別で動いてる」


「別?じゃあ依頼主は誰なんだ?」


「……贔屓の御貴族様ってとこだ」


「調査だけで金貨四。交戦で倍。――もし魔神だったら、と考えるとかなり渋いな」


「どうする? 引き受けるか?」


 俺は依頼書を畳み、懐に入れた。


「どうせ、他に誰もいないんだろ?」


 ガルマは鼻で笑った。


「分かってるじゃねぇか」


 葉巻の先にようやく火が灯り、紫煙が細く立ちのぼった。紙と煙の匂いが交わり、部屋の温度が半拍だけ上がる。


 俺は踵を返した。


 ◇


 第二訓練場は朝の冷えを残して、砂が指の腹で鳴った。木剣の影が地面に長く伸びる。


「依頼が来た。帝都近郊の廃砦、夜に黒い霧」


 俺が言うと、ヴェラは汗を拭きながら短く言った。


「暇だし、私も行くわ」


「帝都! 私も!」


 セリナの目がぱっと明るくなり、すぐに真面目な色に戻る。


「ピクニックじゃねぇぞ。出発は明朝。報酬は三等分。――万が一、魔神が関係していると判断したら交戦はしない。一旦引く。いいな?」


「賛成」


「意義なし!」


 俺は頷いた。砂の匂いが肺に冷たく入ってくる。


 ◇


 昼前、俺たちはスレイグの工房に立ち寄った。火花の匂いが通りにまで漏れている。


 鍛冶場の奥、煤で黒くなった腕が槌を振るうたび、火の粉が空気の色を変えた。金床の上の鉄は赤く息をしている。ドワーフの親方、スレイグは丸太みたいな腕で一度だけ槌を止めて、こちらを見た。


「来たか、不死身」


 声は低く、地鳴りのように床を伝う。俺は剣とナイフを抜き、台に置いた。どちらも黒鉄の光を宿し、刃は手入れが行き届いている。


「手入れを頼む」


「傷は浅いな。……お前も鉄みたいに、馴染んできたか」


「悪くねぇ」


 スレイグは口元を歪め、砥石を取り出した。石が湿り、金属の匂いが強くなる。


「ジャレドの試合、見に行けないわね」


 後ろでヴェラが言う。スレイグの槌の音が律動を刻む。


「あいつに気遣いは不要だろ。――強いやつだ」


 俺は答え、刃の縁を指でなぞった。鉄は、今日も機嫌がいい。


 ◇


 翌朝。空はまだ乳白で、砂は夜の冷えを抱えていた。三頭の砂馬が鼻を鳴らす。毛並みは短く、脚は細いがばねがある。蹄が砂を噛んで、音を残さない。


「帝都まで、南西へ四日。途中に小さなオアシスが二つ。一つ目は一日半ってとこだな。」


 俺が言うと、ヴェラは頷き、鞍の締め具をもう一度確かめた。セリナは荷を背に、眩しそうに東の空を見た。


「行くぞ」


 砂馬が一斉に砂を蹴り、風紋の上を滑るように進む。朝の風が頬を切り、口の中に砂の味が少し入る。遠くに街の白い壁が小さくなり、やがて平らな砂だけになる。俺たちは、影を伸ばしながら進んだ。


 ◇


 一日目の夕暮れ、砂地の緩い窪みを選んで野営を張る。風除けに平たい石を四方へ置き、焚火の位置を決める。空は薄紫から群青へ移り、最初の星が出た。


「結界符、四方」


 ヴェラが指先で薄い符を弾くと、それは地面から三十センチほど宙に浮き、微かな光を帯びて静止した。風は符を揺らさない。四つ目が位置についた時、乾いた空気の中に澄んだ金属の共鳴が、ひとつだけ鳴った。鈴と小さな鐘の間のような音。夜の静けさを汚さない音。


「魔物が結界に触れたら鳴る。見張りはいらない」


「見張りなしで……!」


 セリナが驚く。ヴェラは肩を竦めた。


「鳴ったら叩き起こす。鳴らなきゃ寝る。それだけ」


「寝る前に食う」


 俺は荷から干し肉と数種類の香草、塩、水袋を出した。鍋に水を張り、火を弱く起こす。干し肉を手で割って落とすと、肉の色がゆっくり溶けていく。香草を指で揉んでちぎり、香りを立たせてから入れる。塩は最後だ。湯の縁が小さく息をし始め、油の輪が浮かんだ。


「サンドリザード?」


「他にゃない」


 木匙で底から混ぜて味を見る。舌に最初に当たるのは塩、そのすぐ後ろに干し肉の甘さ。香草の青が鼻へ抜け、夜気の冷たさとぶつかって消える。


「……意外とおいしい」


 セリナが驚いた顔で割ったパンを浸す。ヴェラも無言で匙を口に運び、わずかに目を細めた。


「あんた、そんな特技持ってたの?」


「火起こして、食材ぶっ込んで、ひっくり返しただけだ。大袈裟だな」


「いつもヴェラさんが準備してくれてたから、てっきりこういうのは不器用だと思ってました」


「偏見だ」


 俺は焚火に細い枝をくべた。小さな火が、鍋の底を赤く染める。砂の地熱が足裏から少しずつ逃げ、夜が広がる。結界符は静かに浮かび、時々、風ではないものに触れたかのように、金属の糸のような音をかすかに震わせた。鳴動ではない、ただそこにある存在の音。


「霧は夜に出るんだっけ」


 セリナが空を見上げる。星が増えた。


「廃砦の話だ。ここまでは、砂の息だけだ」


 ヴェラが横になり、腕を枕にした。


「鳴ったら起こして」


「鳴らさない」


 俺は鍋を下ろし、火を弱く落とした。砂の上に座り込むと、背中の筋がやっとほどける。遠くで砂馬が鼻を鳴らした。


 結界符の薄い光が四方で呼吸し、夜は深くなる。俺たちは、交代も設けず、砂の静けさに身を預けた。音は鳴らない。風が行き、冷えが来て、眠りが降りる。


 砂は、夜でも息をしている。


 夜が明けたら、また進む。帝都まで、あと三日。どこかで黒い霧が待っている。


 焚火の最後の火点が、砂の底に沈んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ