第63話 赤砂の再燃
お待たせいたしました!
砂が息をするように、夜明けの光を呑み込んでいた。
戦いの爪痕が残るダストホロウ十五層。
崩れた石壁の陰には、臨時の治療用テントがいくつも並ぶ。
薬草と血、焦げた鉄の匂いが混ざり、乾いた風が布を叩いた。
アイリスは水瓶を傾け、銀の器に薬湯を注ぐ。
淡い香の湯気が立ちのぼり、隣にいたミリアが覗き込んだ。
「温度はこれでいい?」
「はい姉様、もう少しで飲めますね。」
彼女は静かに頷き、寝台の一つに目をやった。
セレナードがわずかにまぶたを震わせていた。
長いまつ毛の隙間から、細い光がこぼれる。
「……あ……」
掠れた声。ミリアが慌てて器を持ち上げ、唇にあてた。
「焦らないで。少しずつ……」
セレナードは数口だけ飲み、微かに首を振る。
喉の奥が焼けつくように熱い。視界が揺れ、薬草の香の向こうに仲間たちの影が滲んだ。
隣の寝台にはカリューネ。
白銀の髪が枕に広がり、呼吸だけが辛うじて生命の証を刻む。
その肌は青白く、まるで別の世界の光を浴びているようだった。
アイリスが手を握りながら呟く。
「まだ戻らないのね……」
「でも、確かに生きてる。――だから待てるわ」
アイリスはかすかに笑みを浮かべた。
もう一つの寝台には、シェラ。
彼女も今回巻き込まれたアイリス派の剣闘士だ。
アイリスは皆の顔を見渡し、低く呟いた。
「……全員、生きて帰ってきた。今はそれだけでいいわ。」
外から吹き込む砂混じりの風が、テントを鳴らす。
誰も言葉を返さず、ただ薬湯の香りだけが静かに満ちていた。
⸻
ゼルハラの街は、夕陽の赤に染まっていた。
《赤砂の盃亭》。
扉を開けると、香辛料と果実酒の香り、そして人々のざわめきが一気に流れ込む。
焼かれた肉の脂がはぜ、笑い声が重なり、砂漠の喧噪とともに夜が動き出す。
店の奥の席に、四人がいた。
ドーレイ、ジャレド、セリナ、ヴェラ。
卓上には肉の煮込み、薄焼きパン、琥珀色の酒――戦いの後のささやかな祝宴。
セリナが盃を掲げた。
「まさか本当に……闘神に勝っちゃうなんて、信じられないです」
ドーレイは苦笑しながら杯を受け取る。
「運が良かっただけさ。ガマン比べで勝っただけだ」
「でも、プラチナよ。不死身がついに――」
ヴェラが盃を軽く鳴らし、言葉を切った。
ジャレドが笑う。
「あんときゃ血の臭いしかしなかったのに、今は酒の匂いだ。悪くねぇな」
ヴェラは髪をかき上げながら苦笑した。
「それより今回の件、もう少し詳しく聞かせて?」
「またガルマに一杯食わされた。北への依頼が、砂の底と繋がってた――」
ジャレドの声に、ヴェラが窓の外へ目を向ける。
砂の街の喧騒が夕暮れの光に溶けていた。
「北……ね。大陸の背骨にあった古代文明が“魔神”を封じた、なんて御伽噺の世界よ」
「けど、今回はそれが現実だ」
ドーレイは盃を傾け、琥珀の酒をひと口飲む。
その瞬間、店の入り口からざわめきが走った。
「おい、聞いたか――チャンピオンが戻ったらしい!」
客の声が波のように広がる。
「ラグナ・グレイヴが……?」
誰かが呟いた。
盃の中の酒が光を吸い込み、夜の始まりを告げるように沈んでいく。
⸻
崩れた神殿跡。
風が砂を巻き上げ、瓦礫の隙間を白くなぞっていく。
焦げた匂いと焼けた鉄の残り香が漂い、瘴気がまだ地表を這っていた。
その中を三つの影が進む。
先頭を歩くのは、黒衣の男――カイン。
風に揺れる外套の裾、左手には魔導書、腰には十字架の鍔を持つ剣。
その眼差しは絶えず地面を走り、崩れた石を一つひとつ確かめていた。
背後には二人。
銀灰の髪を束ねた女、ノエル・ヴァルシア。冷たい琥珀の瞳が砂をなぞる。
腰の十字架剣には封印符が幾重にも巻かれていた。帝都異端審問局の記録官にして、文献解析士。
そしてもう一人、厚い外套を羽織る壮年の男――ダリオ・クレスト。
額の古傷が陽を受けて光り、剣士としての経歴を隠しもしない。カイン直属の実行班長だ。
「……ここです、カイン様」
ノエルが膝をつき、指先で砂を払う。灰色の欠片が、陽光を反射して鈍く光った。
カインがしゃがみ込み、それを拾い上げる。手袋越しでも、まだ熱を帯びていた。
「……バアル・ペオルの仮面の残骸か」
ノエルが符号板を展開し、淡い光を当てる。
浮かび上がるのは、複雑に絡む古い術式の線。
「封印構造の一部が残っています。帝都式ではなく……おそらくエルドア文明の符文です」
「エルドア……滅びた古代文明。魔神を“器”に封じた時代か」
カインの声は低く響く。
ダリオが腕を組み、灰色の欠片を睨んだ。
「仮面も、その“器”のひとつってことですか。……封印されていたのが断片だとしても」
カインは魔導書を開く。封印文字が宙に浮き、瘴気の残る中心で脈打つ。
「ここに封印されていたのは、この仮面の魔神とは別物だろう」
ノエルが顔を上げる。
「では、ここに封印されていた“魔神”は既に顕現している……?」
「可能性は高い。残滓だけ残るなど、本来ありえない」
ノエルが崩れた壁の古代文字を指差す。
「ここに“ケル=ザルグ”とあります」
カインの瞳がわずかに細まる。
「ケル=ザルグ……これが、この地に封じられていた魔神の名か」
ダリオが剣の柄に手を置く。
「魔神ってのは、一体何体いるんです?」
カインは欠片を布に包み、静かに懐に収めた。
「少なくとも三体。ここに封じられていた魔神、仮面の魔神、そして――ゼルハラで“血契”を確認しているものが一体」
崩れた天井の隙間から黎明の光が差し込み、三人の影を長く伸ばした。
包まれた欠片が微かに脈を打つ。
それはまるで、どこか遠くでまだ“心臓”が動いているかのようだった。




