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第61話 砂の底、赤黒の夜明け

 ――神殿跡から少し離れた岩棚。砂が風に削られ、低い庇のような影を作っている。


 アイリスは膝をつき、セレナードの脇腹に手を添えた。双剣は横に外し、漆黒の髪が血で貼りついている。呼吸は浅い。意識は戻らない。


 「《ハイヒール》《グレイシャルリカバー》……いい、止まってる。体温を落としすぎないように」


 レイリアに付き従ってきた、同じアイリス派の魔符術師の女性が符束を胸に当て、淡光で脈を可視化する。「姉様、循環も安定してきました。ここは任せて」


 アイリスは静かに頷く。

 「ありがとう、ミリア。」


 その傍らにはカリューネ。黒の呪縛は剥がれたが、昏睡のまま。ミリアと呼ばれた女性が濡れ布で額を冷やしながら、符で簡易の防護陣を重ねた。


 岩の縁で、レイリアとケイヴァン、そして長槍を携えた灰毛の戦士が地平を見張る。灰毛の鬣に琥珀の眼、リュド派のプラチナランク剣闘士――ヴェルグ。寡黙に槍先の角度だけをわずかに変え、風と音を拾っている。


 「時間がないわ。」アイリスが立ち上がる。

 灰の瞳に焦りはないが、迷いもない。

 「やつら、魔神を復活させるつもりなのか?」ケイヴァンが奥歯を噛む。


 「状況からして間違いないわね。」レイリアが短く答える。「姉様、動けるメンバーで再度、攻め込みましょう」


 「そうね……ミリア、ここは任せる。セレナードとカリューネを頼んだわ」


 「はい。符で位置を送ります。無茶はしないで」


 四人は息を合わせ、影から滑り出た。


  ◇


 同じ頃――地下深く。鉄と石の匂い、鎖の軋み。


 魔導昇降機が唸り、鎖が沈む。

 柵で囲われた籠の中、ジャレドたちは両手を後ろで縛られ、首輪の封印部には封鎖符が追加されている。

 シェラの頬は土埃でくすみ、ランドは血に濡れた胸を荒く上下させていた。

 籠の隅には、顔色を失った女や子供。すすり泣きも声にならない。


 「これ、どこまで……降りるの」シェラが縛られた腕でランドの体を支えながら呟く。


 ジャレドは鉄柵越しの暗がりを見据えた。「――砂の底さ。音の無い方へ、だ」



 ――どのくらい降りたのだろうか、昇降機が止まる。重い扉が横に引かれ、冷たい空気が流れ込んだ。


 そこは神殿の内部――広間の中心に、巨大な魔法陣。黒い線が複層に絡み、脈動している。

 鼓動は肉ではなく、封じられた何かの“残り香”。

 円周には梟の刺繍のフードを被った術者たちが座し、低くうねる声で唱和している。


 ガーネフが腕を組み、無表情で魔法陣を見下ろした。少し離れてバルド。彫りの深い顔に乾いた目。静かな笑いが口元だけに宿る。


 「――オーラ持ちもいる。これで足りるはずだ」とガーネフ。

 バルドは首をひとつ傾け、淡く言う。

 「貴様らは生贄。……魔神降臨のための、な」


 ジャレドたち三人は、他の人々と一緒に魔法陣の中へ押し込まれた。黒いオーラが床から滲み出す。

 抵抗力のない者から、すぐに脚が折れるように崩れ、黒へ溶ける。声は出ない。飲み込まれていくのは音の方だ。


 ランドが崩れた。「っ、くそ……!」歯を食いしばるが、濁流は容赦ない。

 シェラは唇を噛み、気道にまで黒が入り込むのを必死に押し返す。

 ジャレドは全身にオーラを通し、内側から首輪の封を押し広げる。だが焼け石に水――胸骨の下で肺が軋む。


 円の外、暗がりに人影。仮面――いや、仮面の“形だけ”を持つ何かを顔にかけられた少年が立っている。

 目は空で、口も開かない。ジャレドの喉が鳴る。何か言おうとして、言わない。言葉が届かないと、分かっていた。


 魔法陣の脈動は増す。黒いオーラは、どこか“抜け殻”のようであった。

 底が見えないほど膨大なのに、芯がない――それでも、触れたものの魂を軋ませるには十分だった。


  ◇


 神殿外縁。封印柱の影が輪を描く場所。


「行くわ。手筈通りに」アイリスが息をまとめた。

 四人は散開。ヴェルグは最短で“押し”を作り、レイリアはスキルで空に足場のような物をつくり側面へ、ケイヴァンが正面の圧、アイリスが結界と抑制で通路を確保――それが合図無しで成立する。


 石の回廊に、乾いた靴音が落ちた。上層の陰から、男が姿を現す。外套の襟を緩く掴み、額に汗を浮かべている。

 「……また来たの? 本当に勘弁してよね」

 鼻で笑う気配もなく、素で疲れた声。

 バアル・ペオルは仮面を手に提げている。目の奥は澄んでいる分だけ、底に暗いひびが走っていた。

 彼は肩を回し、仮面を持ち上げる。

「――めんどくさ」

 仮面が顔に触れた瞬間、空気が沈む。膨大な質量の圧。音の層が一枚ずつ剥がれ、最下層に黒が滑り込む。


「今!」レイリアが空に足場を刻み、斜め上からバアルの死角へ踏み出す。オーラが足裏で爆ぜ、空中に一瞬の踏台を作った。

 同時にヴェルグが滑るように前へ。長槍が低くうなり、槍尖の先に寸刻の白が生まれる。“刺す”ではなく“錐で穿つ”角度――崩しの初手。

 ケイヴァンは正面で一拍遅らせ、拳で黒の流れを巻き取る準備に入る。

 アイリスは地に指を滑らせ、「《アクセラレーション》《アークバリア》展開――行って!」


 バアルの仮面がこちらを向く。表情はない。あるのは、圧だけ。


 黒刃が無音で三本、扇に走った。レイリアの空足が一段、砕ける。同時にヴェルグの槍が黒刃と噛み合い、火花も音もなく弾かれた。弾かれた瞬間、槍柄が肘に逆衝を返し、筋が悲鳴を上げる。


 「持つ!」

 ヴェルグは無理に踏み込まず、受け流しで角度を殺す。だが二手目の黒刃が背面から来る。レイリアが空で足を踏み、オーラの踵で横払うように弾いた。空気が裂け、黒の輪郭が一瞬だけ白く焼ける。


「《リジェネ》《アークバリア》重ねる――ケイヴァン!」アイリスの結界が再度ケイヴァンの肩から拳へ滑り込み、骨格の捻りに沿って強度を補う。

「助かる!」ケイヴァンの拳が黒刃と噛んだ。触れた瞬間に骨が軋む――それでも一歩、押し返す。次の瞬間、足場が沈む。石ではない“何か”に膝裏を掴まれたように、重心が持っていかれる。


 ヴェルグが槍でバアルの足運びを封じる線を引いた。正面から刺せば刃が潰される。ならば“線”で歩幅を奪う――作戦通りだ。だが黒が線を跨ぐたび、線そのものが“消える”。槍が通った軌跡の意味を、仮面が無効にしていく。


 「《フロストノヴァ》――っ!」アイリスが上位氷陣を展開。床から十重の霜柱が噴き上がり、空気ごと黒を凍らせる。

 肺が焼けるような冷気。視界の縁が白く散り、胸骨の奥が痛む。

 上位魔法は即座に二発は打てない。代わりに《アークバリア》を重ね直す。


 バアルは一歩も退かない。仮面の口が動くことはなく、ただ空気に黒い縫い目だけが増えていく。

「…………めんどくさい」

 黒刃が増え、角度が増え、四人の“間”を削る。ヴェルグの肩口をかすめた一条が、鎧と肉の境を抉った。ヴェルグは声を出さないまま一歩退き、レイリアの庇護圏から外れる位置へ落ちた。血が砂に点線を描く。


 ケイヴァンの拳が鈍り、膝がつく。レイリアの足場がもう一段、薄くなる。アイリスの結界はヒビを増やし、息が白から細い霧に変わる。


 仮面の首がわずかに傾いた。黒が収束する。散弾だった刃が一本に束ねられ、空間の“負”だけを吸い寄せるように大剣の形を取る。振るわない。ただ、飛ぶ――投げられたのではない。圧で押し出される黒の大剣。


 「めんどくさいめんどくさいめんどくさいいいいいいいッ゛゛゛」


 アイリスは身体を張って結界を重ねた。「《アークバリア》《アークバリア》――っ、間に合って……!」

 結界が悲鳴を上げ、光が剥がれていく。ケイヴァンが立ち上がろうとし、膝が沈む。レイリアが空から落ち、足で石を蹴って着地の衝撃を殺したが、血が唇を染めた。


 黒の大剣が迫る。視界の縁が黒で塗り潰され――












 ――赤黒が割り込んだ。







 砂の熱と鉄の匂いをまとった赤黒いオーラ。人の躯が、その中心にある。大剣が振りかぶられる気配はない。すでに“通っている”。


 轟ッ、と空気が裂けた。赤黒の大剣が黒の大剣を斜めから叩き折り、なおも勢いを残して仮面の男を斬りつける。仮面は腕で受け、受けきれず――黒ごと、神殿の内へ吹き飛ぶ。石柱が二本、連鎖で崩れ、砂塵が腹を満たした。


 赤黒のオーラは渦を巻き、立つ者の全身にまとわりつく。


 息は荒くない。目の色だけが熱い。


 アイリスの結界の剥片が、彼の肩で溶けた。ケイヴァンが目を見開き、レイリアが口角を上げる。


 ドーレイはオーラの大剣の柄の部分を肩に預け、砂に落ちた黒の残滓を踏み潰す。顎をわずかに上げ、崩れた回廊の闇へ向けて、短く言った。


「道、開けろ。――砂の底は、俺が斬る」



いつもありがとうございます。

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