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第60話 影喰いの刻印

 ――砂が息を潜めていた。

 ダストホロウ二十層、北部。小高い砂丘の縁に、三つの影が並ぶ。

 眼下には、砂に半ば呑まれた円形の基壇。その中心に、塔の断面のように立ち上がる神殿跡があった。

 壁は層を成し、内側へ螺旋に折れて消える。

 地の底にあるはずなのに、視線は自然と“上”へ引かれる――逆さの塔。


「……ここね。カリューネたちの最後の痕跡」

 灰の瞳に淡い符光を宿し、アイリスが掌を掲げる。

 薄い記録符が風花のように舞い、砂上に線を描いた。

 足跡の密度、擦れ、砂粒の向き。すべてが北面の入り口で途切れている。


「おそらく、ここで何かを見つけたのでしょう」

 黒髪を低く束ねたセレナードが、静かに言う。

 喉元には小さな音叉の印。腰には双剣――細身の刃に、音を伝える紋が淡く走っていた。


 ケイヴァンが鼻先で空気を嗅ぎ、耳を揺らした。

 獣人の拳闘士。拳包に砂を馴染ませながら、短く吐く。

「待ってても仕方ねぇ。入るか。……気配が沈んでやがる」


 砂丘を降りると、温度が一段ひやりと変わった。

 入り口のアーチは石造り。継ぎ目から淡青の光が滲み、読めない文様が脈を打つ。

 刻まれた線は、言葉というより“封じの手順”だ。

 アイリスが目を細める。

「古い封印柱の網目……残存魔力は弱いけど、流れは生きてる」


 内部は静寂だった。

 ところどころに据えられた魔導灯が微光を吐き、砂混じりの空気に白い筋を落とす。

 床は磨かれた石で、靴底の感触は乾いた鏡に近い。

 壁面の環状柱の一つに、崩れた浮彫り。

 そこに刻まれた文字列に、セレナードが指先を添えた。


「……この語根、既知のどの種族語にも合いません。“ケル”。――“影を喰らうもの”と聴こえます」


 さらに奥――円環の中心に、封印柱。

 複柱が束ねられて心臓のような塊をなし、時折、石の奥から低い鼓動が聞こえた気がした。

 アイリスが視線を上げる。塔の内側は、遥かな上空へ向けて細くなっていく。

 塞がれているのに、どこかへ繋がっている錯覚。息が自然と浅くなる。


 その時、薄い振動。足裏で拾うほどの、極小の震え。

「……音が、消えていく」

 セレナードの声が低く落ちた。

 わずかな砂の落ちる音、魔導灯の唸り――それらが一枚布で覆われるように遠ざかる。

 静寂の向こうに、別の律動が重なる。


「来る」ケイヴァンが一歩踏み出し、拳を構える。

 黒い気配が、柱影から滑り出た。

 大鎌の刃が灯を裂き、空気が悲鳴する。


 ――カリューネ。

 見間違えようがない。

 顔色は白砂のように薄く、眼は深い水底に沈んだまま。

 全身を包むオーラは黒く、しかも濁って重い。

 息遣いの代わりに、呪詛の泡が皮膚の下で弾けている。


「カリューネ!」

 アイリスが叫ぶより先に、刃が落ちた。


 初撃を受けたのはセレナードだった。

 双剣が交差し、金石の衝突はない。

 音そのものを喰うように、衝突の振動が吸われていく。

 火花の代わりに、光の波紋が床石を走った。


「精神支配……神殿の呪詛に引かれてるようです!」

 セレナードの声は落ち着いているが、刃元の振動が強まる。

「質が悪い、深い……でも、剥がせます」


「任せろ」ケイヴァンが吼え、カリューネの刃に踏み込む。

 拳が唸り、オーラが拳包から火柱のように噴く。

 大鎌が迎え撃つ。

 衝突。石床がめり込み、粉砂が立つ。

「なんてオーラの質量だよ! こりゃやべぇ!」


 アイリスの詠唱が低く重なる。

「――《アークバリア》《セレスティアプロテクト》《ブリザードランス》!」

 符が宙で弾け、ケイヴァンの体を包み、冷光が走る。

 同時に、氷の槍が三つ、カリューネの足運びを止めるように地へ突き立った。

 冷気が砂を白く縁取る。


 アイリスの目は揺れなかった。

 視界の端で、セレナードの呼吸と刃の角度を同時に読んでいる。


 大鎌が頭上から落ちる。

 セレナードは半歩で潜り、刃の腹で振動を“食わせる”。

 衝突が音に変わる前に、音そのものを斬り、溶かし、吸う。

 ケイヴァンが空いた角度から拳を打ち込み、刃の軌を乱した。

 アイリスの氷槍が刃先を凍らせ、動きを半拍遅らせる。


 セレナードが一歩退き、細く息を吸った。

「……ここから、私の歌で引き剥がします。少しの間、任せます」

「了解!」ケイヴァンが咆哮し、足で床を刻んで距離を制御する。

 アイリスは即座に重ねる。「《サイレンスフィールド》――任せたわ、セレナード」


 歌が始まった。

 一音目は、灯の明滅よりも小さく。

 二音目は、封印柱の鼓動に重ねて。

 三音目で、石が呼吸する。


 周囲の音が、一枚ずつ剥がされていく。

 砂の微振動、衣擦れ、息。残るのは、歌の波形だけ。

 黒いオーラがざわめいた。皮膚の下を這っていた呪詛の泡が逆流をはじめ、鎖の結び目へ集まる。

 セレナードは双剣を構えたまま、喉だけで調弦を上げる。

 振動の刃が“つなぎ目”に触れ、音がふっと抜けた。


 カリューネの肩がわずかに跳ね、膝が折れる。

 黒い霧が皮膚と大気の間から剥がれ、床へ、そして封印柱へ向かって吸い込まれていく。

 大鎌が傾き、カラン、と石に触れて止まった。

 アイリスが駆け寄る。「大丈夫、戻ってきて――《テンペランス》!」

 掌が額に触れ、温い光が滲む。


 その瞬間だった。

 ――刺す、というより“抉る”黒。


 上方、環状柱の陰から、影が一本落ちた。

 黒いオーラの槍が、歌を狙って一直線に。

「――っ!」

 セレナードの脇腹を斜めに穿ち、石床に刺さる前に霧となって散った。

 歌が一瞬、途切れる。膝が崩れ、指先から双剣が滑り落ちる。


「セレナード!」

 アイリスが反射で抱え込み、血へ触れるより早く多重詠唱を重ねた。

「《ハイヒール》《グレイシャルリカバー》!」

 傷口の周りに薄い氷輪を巡らせ、出血を瞬きで封じる。

 その間に、ケイヴァンが跳ねた。

「そこかぁっ!」


 環状柱の半階上、黒の残滓がまだ揺れている。

 ケイヴァンは壁蹴りで上がり、拳を連ねる。

 だが叩いたのは“影”そのものだった。

 殴打は当たった感触を残さず、影は笑うように広がって消える。


 乾いた靴音。上から。

 軽く、しかしよく通る音。


 見上げた先――上層の回廊の影から、仮面が覗いた。

 白でも黒でもない、灰の無表情。

 眼孔は浅く、そこに宿る視線だけが凍てついている。

 外套は埃ひとつなく、布の縁が風のない空気にわずかに揺れた。


「……七星級の圧……だと?」

 ケイヴァンが目を見開く。

 

 アイリスが息を詰めた。

 仮面の縁、その光の揺らぎに覚えがある。

「――報告にあった、“バルド派の七星”。……バアル・ペオル」

 

 ケイヴァンは歯を剥いた。「バアル・ペオルだと! 七星って――それ以上じゃねぇか!」

 足が沈む。床が軋み、膝が自然に沈み込む。

 空気が押し潰され、音が“死ぬ”。


 仮面が、ゆっくりこちらを向いた。

 表情はなく、ただその動きだけで魔導灯が一つ消える。


「…………めんどくさい」


 無柄の黒刃が五本、無音のまま浮いた。

 一本が床をえぐり、もう一本が壁をなぞり、氷壁を粉砕する。

 残る三本が曲線を描きながら、空間を“削ぐ”ように滑る。

 ケイヴァンの拳がそれを受け止めようとした瞬間――弾かれた。

「ぐっ……!?」


 圧。

 身体が勝手に沈む。砂でもない床が、膝の裏まで沈んだ気がした。

 アイリスの詠唱が切れ、結界の光が歪む。

「……これが、七星を超えるオーラ……!」


 仮面が、再び傾く。

 黒刃が滑る。

 アイリスは反射で詠唱を跳ね上げた。

「《アークバリア》《フロストノヴァ》!」

 氷壁が十重に立ち上がり、同時に氷刃が逆流する。

 だが黒刃はそれを踏み潰すように通過した。


 ケイヴァンの咆哮。

 拳が黒刃を迎え撃つ。

 触れた瞬間、骨が軋む音がした。

「ちくしょうっ……!!」


 その瞬間、神殿の入口側で爆ぜる音。

 砂煙と共に、青い紋章を刻んだ旗が揺れた。

 「――レイリア隊、到着!」

 鋭い声と共に、光の槍が天井を突き抜ける。

 灰毛の戦士、魔導符を掲げた女。

 その先頭で、黒の短外套が翻った。


「姉様!」

 レイリアの声。

 炎を纏う符が連鎖し、黒刃の軌道をなんとか逸らす。

 ケイヴァンが歯を食いしばる。「遅ぇぞ!」

 「悪いわね、獣さん。準備に手間取ったのよ」


 アイリスはセレナードを抱えたまま、撤退路を振り返る。

 バアルはあの場から動く気配はない――恐らく神殿の防衛が目的。


「全員、離脱! 一旦引いて立て直す!」

 レイリアが頷き、符を弾く。

 氷と光の結界が連鎖し、道を照らした。


 上層の仮面が、その光景を見下ろしていた。

 灰色の外套、風に揺れない布。


 「…………めんどくさい」


 バアル・ペオルはそれ以上動かず、

 ただ塔の鼓動が再び落ち着くのを聞いていた。


 ――遠くで、鈴が一度だけ、鳴った。


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