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第59話 灰狼と梟

 ――二日目の昼過ぎ。平原の端に、小村が現れた。

 低い石垣に粗い木柵。風を裂くように立つ小さな祠の屋根は、砂を払う角度で北を向いている。遠くには黒ずんだ森の帯。夏でも冷えを孕んだ風が、草の穂を逆なでた。


 村の空気は、外から来た者に敏感に揺れた。視線が、すぐに逸れて、また戻ってくる。歓迎でも拒絶でもない、測る目だ。


 祠の石は、バルディアの石よりも乾いて冷たい。陽を受けても熱を吸わず、指を当てれば粉のようにざらつく。

 継ぎ目には、薄く欠けた刻み。文字というより、刃を埋め込んだような痕。誰かが、何度も同じ線をなぞって石に沈めた――そんな圧の跡だけが、古さを語っていた。


 壁際の古い石板には、読めない文様が彫り込まれている。

 それを指でなぞったシェラが小声で呟いた。


「この線……生きてるみたい。風が通るたび、揺れて見える」


 ヴァルスがちらりと見た。「古代語、かもしれん」


 「そういえば背骨には、はるか昔に文明があったって話、聞いたことがあるわ」

 シェラの声が細く響く。

 「ここはもう大陸の背骨の麓だもの。名残があってもおかしくないわね」


「さあ到着だ!」


 御者台から身を乗り出し、ハグルが笑う。拍手までして、わざと明るい声を立てた。


「何の問題もなく到着だ。さぁ、酒だ、飯だ。今夜は奢る!」


 酒場へ向かう道すがら、シェラがふと足を止めた。村はずれ、草の切れ間から、祠と繋がった低い神殿の屋根がのぞく。石段は半分ほど土に飲まれ、苔が湿った光を返していた。


「……神殿」


 ジャレドの足も止まる。風がその屋根を撫でる瞬間だけ、音が一拍遅れる。空気が深く吸い込まれ、吐かれずに留まるみたいに。そこに、何かがある。


「おいおい、冷めるぞ!」


 ハグルが慌てて腕を広げ、明るさを作る。「酒場だ、酒場! まずは腹だ!」


 笑顔に急かされ、木扉を押し開けた。



 店の名は《祠風亭》。

 灯は低く、油の匂いが近い。黒パン、塩気の強い干し肉、薄い香草のスープ。壁際の棚には、割れた杯が継ぎ当てられて並ぶ。歌が始まるでもなく、しかし沈黙でもない。曖昧なざわめきが、天井の梁に絡みついていた。


 店主は痩せていて、声は細いがよく通った。

 「遠いところを。……旅の方々は、祠の北には近づかぬがいい。夜風が悪い」


「夜風が悪い?」ランドが尻尾で椅子の脚を小突く。「風のせいなら、布でもかぶせとけよ」


 店主は笑って、笑っていない目をした。「布は飛ばされます」


 その会話に割って入るように、隅の老人がぼそりと呟いた。

 「祠の鈴は一度しか鳴らん夜がある。……あれが鳴ると、誰かがいなくなる」

 店主がすぐに笑いでかき消す。「昔話ですよ。信じると眠れなくなる」


 端の卓では、若い男が二人、盃を持っているのにほとんど口をつけない。外の通りを、誰かが横切る影が、決まって祠の方を見ない。見ないようにしている。


 ハグルはいつもよりよく喋った。「この村の酒は薄いが、悪くない。草の匂いがするだろ。あれがいいんだ。胃が休まる」


 盃の縁をなぞる彼の指先が、わずかに震えている。

 ジャレドはそれを見て、何も言わないで飲んだ。


 シェラはスープを一口だけ啜り、湯気の向こうに祠の輪郭を思い描く。

 ヴァルスは背を壁につけ、店の奥と入口をそれぞれ一度ずつ、長く見ただけだった。


 日が落ちるにつれて、酒場の声は減った。

 誰も歌わない。笑いも続かない。客の会話は三言で切れ、残りは盃の中に沈んでいく。扉が開いて風が入るたび、祠の方から遅れて冷気が滑り込んだ。


「宿を頼みたい」とハグルが言うと、店主は頷いた。「部屋は四つ。通りに面していない方にしておきます」


 鍵の束が音を立てたとき、店の外で小さな鈴が鳴った。誰が鳴らしたのかわからない。鳴り方は一度だけで、合図のように短かった。


 ――夜が来る。



 宿の廊下は狭い。油灯が二つ、壁に沿って低く燃えている。

 床板の鳴りは弱く、部屋の扉は新しいのに、蝶番だけが古い。鼠の足跡のような黒い擦れが、天井の角で消えていた。


 ジャレドは荷を簡単にまとめ、枕元に斧を置く。

 扉の隙間から差す灯が、鋭い三角を床に作った。風の音はない。虫も鳴かない。代わりに、草の海全体が遠くで一度だけ沈む気配があった。


 息を潜めて耳を澄ますと、村のどこかで扉の閂が落ちる音が連続した。家々が同じ時刻に、同じ仕草で夜を閉じる。訓練された沈黙だ。


 ――何かが、来る。


 廊下一番奥の部屋で、ヴァルスの気配が薄く揺れる。槍が床を一度、軽く叩く。返事はない。叩いたのは「そこにいる」の合図で、返事は不要だという意味だ。


 灯が、ひと呼吸ぶん短く消えた。

 音がない。なのに、耳の奥で鈴が鳴った気がした。


 最初の気配は、窓枠の外から。

 二つ、三つ、影が滑り込む。床板が鳴らない。呼吸の音がない。匂いがない。人の来訪で必ず生まれる、衣擦れの微かな音が、最後まで生まれない。


 扉が内側から爆ぜ、砂が舞った。ランドの獣の反射が先に動いた。短剣が低く閃き、喉を割る――はずだった。刃が通り抜ける感触はあるのに、血の匂いがこない。手応えが砂だ。悲鳴がない。影は止まらない。


「なっ……!」


 シェラの部屋の灯が吸われたみたいに消える。詠唱が口の中でほどけ、板壁で鈍い音が跳ねた。焼けた匂いに混じって、湿った砂の匂いが鼻の奥へ這い上がる。

 廊下の端で、何かがずれる音。

 (――ヴァルス?)

 呼びかけは舌の上で消えた。彼の部屋の扉は開かない。音もしない。そこだけが、切り取られたように静かだった。


 ジャレドの部屋の窓が、紙一枚ぶんだけ浮いた。黒が直線で飛ぶ。

 オーラを纏った斧が逆手で上がる。木の柄が掌に馴染み、鉄が闇を割る。胴を割った感触があるのに、崩れない。刃の周りで、ドス黒いオーラが霧のように揺れ、肉と違う弾力で押し返してくる。目がない。顔が、顔でない。人の輪郭を借りた、別の何か。


「下がれ!」


 ジャレドが廊下へ躍り出る。

 三つの扉のうち二つからは戦いの音、もう一つは沈黙。床に刃が跳ね、壁に刃が刺さる。シェラの魔弾が一体の頭を焼く――動く。焦げた匂いが鉄ではなく、湿った砂へと変わっていく。


「効きが薄い!」


 ランドの肩が裂け、毛並みに黒い線が走った。痛みが吠えを誘う前に、影がもう一歩めり込んでくる。

 ジャレドは迷いなく斧を投げ、一体の喉を穿つ。倒れない。悲鳴がない。足元から、砂地に踏み込みすぎたときの、あの嫌な沈みがじわりと上がった。


 ――網。


 背後の窓から太縄が投げ込まれ、符が散って光る。身体が沈む。床が柔らかくなる。関節が抜ける感覚。筋肉の命令が滑っていく。冷たい金属音。首輪の封印部に触れられる。

 シェラの詠唱がもう一度、短く立ち上がり、また潰れた。ランドが噛みつき、骨を砕いたような音がしたのに、影は前へ出る。


 抵抗は続く。だが、数が違う。暗いオーラの濁流が、部屋ごと押し流してくる。三人は善戦した。が、善戦は勝利ではない。手首に寒い感触。背に重み。膝が砂のように沈む。


 沈黙の中、鈴が一つ、転がった。


 廊下の奥から、拍手。高すぎる笑い声。


「いやぁ、見事、見事!」


 ハグルが現れた。いつもの笑顔のまま、目だけが冷たい。肩をすくめる。


「ようやく、役目を果たしてくれたな」


 灰色の外套の男が一歩、前へ。狼の徽章。顔は布で半ば隠れ、目だけが乾いた光で笑っている。

 男はジャレドを見ると、口角をわずかに歪めた。


「――無様だな。結局、こうなる。」


 低い声。ジャレドの目が細くなる。


「……ガーネフ」


 男の瞳が一瞬だけ揺れ、すぐ冷えた。


「連れていけ」


 外の夜風が、低く鳴る。

 最後に、靴音。重く、砂を踏む音に似ている。梟の刺繍を誂えた外套を纏った男が灯の外から現れた。彫りの深い顔に、乾いた目。静かな笑いが、口元にだけ宿る。


 空気が沈む。ジャレドは顔を上げ、歯を食いしばる。


「……てめぇ、バルドか」


 男は何も答えない。指先が僅かに動き、黒いオーラが廊下を満たした。

 その瞬間、村の外の祠で、鈴がひとつ、風に鳴った。


 ――灰狼と梟。その夜、誰も祠の方角を見なかった。

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