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第58話 砂の尽きる先

 昼過ぎ、バルディアの塔が見えた。砂の帯が薄れていき、低い草が風に波をつくる。砂漠の終いと、平原の始まり。その境目に、街はあった。


 門をくぐると、石と鉄の匂いが鼻を刺した。鍛冶場の槌音が連なり、路地では背の低い職人たちが鋲打ちの皮鎧や留め金を並べている。石畳はゼルハラほど広くはないが、荷車と人の流れは絶えない。北の国――ドロムハルドへ通じる街道の喉元として、バルディアは活気に満ちていた。店先に吊るされた金具は厚く、鋳造の印が誇らしげに刻まれている。香辛料よりも、油と煤の匂いが勝っていた。


 ハグルは御者台から軽やかに飛び降りた。


「まずは銀行だ。報酬はそこで振り込む」


     ◇


 石造りの銀行《帝国銀行・バルディア支部》。

 正面の円柱には首輪識別用の水晶が嵌め込まれ、光が脈を打つたびに数字が浮かぶ。

 列の先で、窓口の女書記が声をかけた。


「首輪をこちらへ。残高確認の後、受け取りを記します」


 ハグルが差し出したのは商業用の帳札。水晶が淡く光り、数字が転写される。

 書記は印章を押し、視線だけで笑みを作った。


「報酬振込、確認しました。依頼主ハグル・デーン名義、護衛報酬として登録済みです。……なお、帝国銀行はどの派にも属しません。ご安心を」


 ジャレドは短く礼を返し、柱に映る自分の首輪の光を一瞥した。

 符が静かに脈打ち、数字が沈む。ここでは、金と身分が同じ鎖で繋がっている。


     ◇


 酒場《平原と砂漠亭》。夕暮れの光が琥珀色の酒を透かし、木卓には黒パンと肉の煮込み、刻んだ香草。壁際には鉄の装飾灯が下がり、客の半分は鍛冶場帰りの男たちだ。

 店の奥、小さな台に吟遊詩人が立つ。擦れて艶の落ちたリュートを抱え、指で弦を撫でた。弦が乾いた空気をほどき、低い旋律が床板へ染みていく。


 歌が始まる。


背骨のりょうに、石の庭があった

風はきざはしを数え、光は石に縫いとめられた

いつかの王たちは、雲より先で杯を掲げ

いまは名前だけが、山脈の骨に残る


 ざわめきが少しだけ静まる。鍛冶師たちの手が盃の途中で止まり、数人がうなずいた。詩人は息を継ぎ、淡々と続ける。


そこへ登ろうとする者は、風に名を取られる

石の扉は沈黙し、道は昼でも夜ほど暗い

けれど砂が尽きる先、地の底と空の縁は

いつだって、どこかで繋がっている


 リュートの余韻が、鉄の灯に薄く揺れた。

 店主が「いい歌だ」と短く言い、別の卓から硬い笑いが漏れる。「昔話だ、昔話」と誰かが肩をすくめるが、目は窓の北側へ流れていた。


 ハグルはグラスを傾け、安堵の息を漏らす。


「やれやれ、肩の荷が下りたな。……こうして無事に着けたのも、あんたたちのおかげだ」


 軽い笑み。けれど、指先が盃の縁をなぞるたび、微かな緊張が見えた。ジャレドはそれを見逃さず、歌の余韻が消えるのを待つ。

 詩人は台を降り、「背骨の向こうは未踏だよ」と独り言のように呟いて、客の間をすり抜ける。誰も否定しない。ここでは、登らないことが生きる知恵だ。


 ハグルは一口飲んでから、ようやく声を落とした。


「実はな……もうひとつ、頼みがある」


 小さな間。シェラが顔を上げる。


「どんな?」


「国境の小村まで荷を届けなきゃならねぇ。どうしても、俺の手でな。……だが、この先は物騒だ。砂族だけじゃなく、グレイウルフまで動いてる。護衛を引き続き頼みたい。報酬は倍出す」


 ランドの耳がぴくりと上がる。「倍、ね。悪くない」


 シェラが眉をひそめた。「でも私たちには首輪がある。ギルドの報告外に動けば罰則が……」


 ヴァルスも頷く。「契約はバルディアまでだ」


 ジャレドは盃を回していた。さっきの歌詞が、背骨の黒い稜線と重なる。噂――グレイウルフ、国境、人攫い。沈黙は短く、重い。


「……やめておくべきだ」


 そう言いかけて、ハグルが口の端で笑った。


「首輪は弄れる。報告は遅らせればいい。なぁに、誰も困らない。俺はただ、荷を届けたいだけなんだ。……頼むよ」


 軽く言った。だが、目の奥は笑っていない。ランドが先に口を開いた。


「倍なら、行こうぜ。困ってるってんならなおさらだ」


 シェラはランドを横目に。「安易よ。……でも、放っておけないのも事実」


 ヴァルスはジャレドを見る。「判断を」


 ジャレドは息をひとつ吐いた。「嫌な噂が多すぎる。――だが、見に行く価値はある」


 短い沈黙ののち、頷きが三つ。店の奥で、詩人が再び弦を撫でた。

 歌はもう聞こえないのに、《平原と砂漠亭》には、背骨の風だけが薄く残っていた。


     ◇


 夜明け前。路地の奥で、魔導技師が工具を広げていた。首輪の継ぎ目に金具を差し込み、符を刻む。カチ、カチ、と乾いた音。金属に淡い光が走り、報告用の刻印のみが「遅延」へと一時書き換えられる。


「……これで二昼夜は通知が後ろへずれます。外しはしない。外したら、命が遅れる」


 技師は目を上げずに言い、手際よく箱を閉じた。


 門外。風が砂を低く転がし、やがて草の匂いに変わっていく。平原は薄い霜のように白く、朝の光を受けてきらめいた。遠くの鍛冶場から、最後の槌音が一つだけ遅れて届く。


「行くぞ」


 ジャレドの合図で、輪が動き出す。ランドが前を、ジャレドが隊列の後ろ目を、シェラが車列の内側を。ヴァルスは無言で背面の視界を拾い、要所ごとに位置を微妙に変えた。ハグルは御者台で鼻歌を歌う。街が遠ざかり、砂と草の境界を踏み越えるたび、匂いが入れ替わる。


 昼。空は高く、雲は薄い。小さな虫が草むらを渡り、遠くで鳥が鳴く。ランドが肩を伸ばし、笑う。


「砂より走りやすいな。鼻に砂が詰まらないのが最高だ」


 シェラは草を摘み、指で揉んで匂いを確かめる。「湿りが戻ってくる。……嫌いじゃない」


 ジャレドは時折、北の地平を見た。平原のうねりは、その先で黒く盛り上がる――〈大陸の背骨〉だ。


 夕暮れが落ちる。野営。焚火は小さく、風除けに帆布を張る。出入り口は狭く一つ。夜の平原は、砂よりも音が少ない。


 最初に気づいたのはランドだった。耳が風に立つ。


「……鳴き、じゃない。風が……鳴いてない」


 シェラが灯を絞った。炎が呼吸を止める。虫も鳴かない。遠くで、草が一瞬だけ逆向きに押し潰れた。


 ジャレドは焚火から目を上げ、暗い北の空を見た。何もない。何もないのに、背骨のあたりで寒さが広がる。


「交代を短くする。目は四つで足りない」


 うなずきが、闇に溶けた。ヴァルスは黙って槍の石突を土に押し当て、土の返事を確かめるように一度だけ目を伏せた。


     ◇


 その頃、ダストホロウ十五層。キャンプの灯が、石壁に橙の輪を描いている。

 転移陣の光がまだ薄く残り、焦げた砂が煙を上げていた。


 不死身は焚火の向こうでガルマと向き合った。カインは少し離れ、魔導書に指を置いている。ガルマの腰には、細身の刀。珍しく、露わに帯刀していた。


「転移ってのは、こうも鮮やかに飛べるもんか」


 ガルマが笑い、煙を吐く。「エルディアの魔道具は伊達じゃねぇな」


「便利ですが、使用回数には限りがあります」

 カインの声は落ち着いていた。ガルマには礼を失せず、どこか祈りにも似た響き。

「焦げた砂の匂い……あれは魂の摩耗です。行き来を繰り返せば、いずれ戻れなくなりますよ」


「なら、一度で済ませるさ。――なぁ、不死身」


「言われなくても分かってる」


 ガルマは調査隊の帳場から紙束を取り上げ、広げる。アイリスの筆跡。記録符の座標、崩落帯、魔物の習性、消えた痕跡。


「……ここまで広大とはな」


 独り言のように呟き、視線が北――大陸の背骨の方角へ滑る。


「まさか、とは思うが」


 言葉はそこで切れ、焚火が小さく鳴った。

 カインは静かにページを撫で、目を細める。

「……“砂の底が呼んでいる”というなら、それはあなた方を選んでいるということですね」


 不死身はわずかに笑った。「なら、選ばれた方が燃えるってもんだ」


 焚火がぱち、と音を立てる。

 炎の揺らぎが一瞬だけ逆さに揺れ、足元の砂が呼吸するように沈んだ。

 誰も気づかぬまま、地の底から、かすかな鼓動が響いていた。


 ――砂の尽きる先、その呼び声が始まっていた。


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